一つの時代に咲いた二つの華  52

2020年06月23日

 昭和初期は不況の時代であった。昭和6年に満州事変、7年には上海事変がぼっ発した。国内では昭和7年に五・一五事件、8年には小林多喜二が築地署に検挙されて虐殺されるなど、不安の多い時代でもあった。

 この時代に、小樽出身の二人の女性が全国的な脚光を浴びた。今月はこの女性二人を紹介する。

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 昭和7年には「影を慕いて」「涙の渡り鳥」「天国に結ぶ恋」という歌謡曲が当時の軍国歌謡を抜いて大ヒットした。

 これは、当時の世相の背景に、心細い国民の不安と感情が反映されていることを物語っている。

 この「涙の渡り鳥」の歌手、小林千代子は小樽の稲穂町生まれであり、その経歴については本誌HISTORY PLAZA⑱で詳しく述べたとおりである。昨秋、この曲の楽譜発売に力がいれられていた。表紙には竹久夢二などの作品も多く出されていた。この「涙の渡り鳥」の楽譜表紙もいい。加藤まさるの作品で憂いに満ちた女性像がブルーをバックに描かれている(次頁)。

 この曲は小林千代子デビュー2年目のものであるが、いまも昭和名曲集の中に入っている。戦中、戦後を通じ長く歌われたものの一つである。

 彼女は戦後小林伸江と改名し、オペラ界でも活躍したが惜しくも昭和51年に他界した。

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 ターキーの愛称で一世を風びした男装麗人、水の江瀧子も小樽の生れである。家は花園町の松竹ボーリング場(元松竹座)の近くにあった。

 瀧子が松竹少女歌劇部(SSK)にいた昭和8年、待遇改善の争議を起こし、その争議委員長としてストライキを先導した。ターキー18歳のときである。

 マスコミは「桃色争議」「花の委員長」「輝ける委員長のターキー」と書きたてた。浅草松竹座近くの旅館を闘争本部として2 30人の踊り子が頑張ったが、団交はきびしく長引いた。

 そのあと、ファン提供の湯河原の別荘にたてこもり、一ヵ月にわたって闘い続けたが、ファンの声援も大きくついに会社側が譲歩してストは解決した。給料アップ、休暇獲得と共に以後は、松竹少女歌劇部が松竹少女歌劇団(SSKD)となり、松竹歌劇団(SKD)の原型が整ったのである。

 この年の秋、ターキー公演による「タンゴ・ローザ」はレビューの傑作と言われ160回の公演記録を樹立した。

 戦後は映画プロデューサーとしても活躍し、石原裕次郎、浅丘ルリ子、岡田真澄、フランキー堺、津川雅彦らを発掘し、日活映画の黄金時代を築き上げた。

 日活で水の江瀧子がプロデュースした映画は、「太陽の季節」「狂った果実」「俺は待ってるぜ」を含み66本である。

 彼女は今年78歳を迎えたが、童話の金太郎で知られている足柄山に住み、健在である。そしてこの春には自分の「生前葬」を行なって話題となった。生前葬のための参列者もなごやかなものであったが、その層の広さと、今も続いているターキーの交友関係に温かさを感じる。

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 全国の人たちから大きな声援をうけた小樽出身のこの二人の女性は、抑制の時代に鮮やかに咲いた才気の華であった。

 北国の風と波、そして坂の街にも似た起伏に富んだ二人の気性は、小樽っ子の一面を表しているように思われる。

 

A 宝塚で25年、トップスターとして活躍した小樽生まれの水の江瀧子(自筆サイン入り)

 

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~HISTORY PLAZA 52

小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年連載より