実態調査(1992年)から その23~色内通りを飾る店舗と事務所建築(2023.01.04更新~やっと解決しました)

2023年01月05日

 2.街並みと石造建築

 ②色内通りを飾る店舗と事務所建築

 埋立地を中心とした大規模営業倉庫に次いで、小樽の町並みに彩りを加えていったのが、運河と並行してはしる色内通りで、店舗や事務所建築が明治中期から昭和初期にかけて建てられていった。

 木骨石造の店舗建築は明治中期より現れはじめ、当時の市街地建築を描いた明治26年刊の『小樽港実地明細図』にも、数棟紹介されている。この頃の石造店舗は、伝統的な町家風のスタイルを持つ一方で、アーチ窓やオーダー(洋風の柱頭飾を持つ柱)を付けるなど洋風意匠を加味していた。

 明治37年の大火は、稲穂、色内の町を焼き尽くし、市民に耐火建築の重要性を訴えかけ、さらなる石造建築の新築を促した。大火後の店舗建築は、ナトリ(株)小樽支店(旧名取高三郎商店)や(有)川又商店(旧早川支店)のように和風色の濃いデザインへと回帰している。これと相前後するように、事務所建築も木骨石造で建てられ始める。堺町の白石工業(株)小樽営業所(旧広海二三郎)はうだつを持つものの(現在は袖壁のみ遺存)、窓廻りの細部意匠など正面のデザインに事務所的な表情がより強く感じられる。

 木骨石造の事務所建築の魁は、現在北海道開拓の村に移築保存されている、明治42年創建の小樽新聞社と考えられている(※11)。うだつを持つ在来の町屋風デザインから脱却した高層(3階建て)の事務所建築は、きわめて遺構が少なく、明治44年創建の清水鋼機(株)(旧清水合名会社)の他は昭和2年のインデラ(旧稲葉商店)が確認できる程度である。大正10年の(株)ホクリョウ(旧上勢友吉商店、入船1丁目)は、外観は類似するものの、本石造である。旧塚本商店(大正5年)のように木骨鉄筋コンクリート造という過渡的な構造も現われるが、大正末には鉄筋コンクリート造による事務所建築が主流になっていた。

※11~美宣の正確な創建年代は不明であるが、『小樽』(棟方虎夫著、大正3年)によれば、明治40年7月設立とあり、」小樽新聞社より古い可能性もある

 

 

今日、久しぶりに

小樽運河へ行きました

観光客気分で写真を撮っていると

外国の方が突然コートを脱ぎ、…。

「私のカメラで私を撮ってください。」と言っていたようなので、三枚ほどシャッターを押しました。

心の中で『知らない人にカメラを渡して大丈夫?』と、思いながら…。

(だって、相当高価なかめらのようでした。)

それと、

バスでの出来事~いつもはこんなふうに取り付けられている取っ手

その取っ手の部分が外れていたんです❢

私より先に降りた女性の方が、運転手さんに『取っ手が外れていることを』知らせていました。

(終点に着いたら運転手さんが、入念に車内をチェックしている姿をよく見かけます。)

『いつ、外れたんだろう。』

~2019.4.12

 

その答えが よ~やく わかりました。

(『わかったんですが、2019.4.12のこのページをどうしても探し出すことができませんでした。私は〈言葉〉で探したんですが…。』

一昨日来てくださった誰かさんは、「〈写真から探す〉と見つけやすいですよ。」と言って、なんと!見つけ出してくれました。)

 

その答えは

バスの振動でねじが緩んでくるのでした

『恐るべし、小樽の坂道❢』

 

長年の疑問がやっと解決しました。

『めでたし、めでたし。』