開港90周年を迎えた小樽その初年と50周年をふり返る

2018年06月17日

 今年の小樽は開港90周年を迎える。明治32年に外国貿易港として指定されたこの年を開港年としたものである。小樽港という名称になったのは明治5年であるが、形成については松前藩政時代にさかのぼる長い歴史がある。

 90年前の明治32年は北海道に区制施行令が発布され札幌、函館、小樽が区になっている。同年における海に関するものだけ振り返ってみると、

小樽の他に釧路、室蘭も開港。道庁補助航路として小樽~天塩間、小樽~網走間の2線も開始され、その他水難救助所も設置されている。

 開港及び条約改正の祝典は住吉神社境内で開催された。その中で私が特に評価したいのは、この年に月高畑宣が「小樽港史」を発刊したことである。これは貴重な郷土文献だと思う。

 次に注目したいのは、小樽港埋立問題について有志者大会を入船の天上寺で開催したほか、数回にわたって熱心な討議を重ねたことである。今のことばというとその運動にアクティビティ-とコンセントレイトを感じるのである。なお、区民連帯の連帯のあった同年における小樽市の人口は6万1893人であった。

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 40年前の昭和24年には戦後最大のイベント「港まつり」が開催されたが、これは開港50周年の記念行事であった。

 当時の市長は寿原英太郎。協賛会会長-松川嘉太郎。副会長-松浦三平、永山政能。総務部長-赤坂健一郎。副部長-平野清嗣、岸造三、笹本尚造。宣伝部長-東策。副部長-三浦吉太郎、矢作幸吉。体育部長-平澤亮造。副部長-見延庄一部。芸能部長-桑原喜助。副部長-寺本新助、鈴木嘉兵衛、中川則夫、三橋一郎という今はなつかしい強力な面々であった。

 行事の一つとして記念レコードを発売したが、歌詞をみると、あああの歌かと当時を思い出す人がいると思うので、その一番だけを紹介したい。

 ○小樽港音頭

咲いて嬉しい文化の花よ

波に港に街々に

踊った踊ったヨイサッサ

ヨイトコ小樽に

   ヨイヨイヨイ

鴎なけなけめでたい夜明け

港にういて半世紀

踊った踊ったヨイサッサ

ヨイトコ小樽に

   ヨイヨイヨイ

 

 ○夢の小樽

ほのぼのと

今日も出船の

ドラからあけりゃ

踊る朝日に気もおどる

心楽しやあの日のままの

波の揺りかごゆられてゆれて

鴎うたえよ想出の

ああ港 夢の小樽よ

 この音頭と歌謡曲の歌詞は全国に懸賞募集したものだが、音頭は岡山県の人、歌謡曲は栃木県の人が、一等入選しレコード化された(歌手等はコピー参照)。

 期間中には花火大会やちょうちん行列、体育や音楽、演劇など多彩な行事が展開されたが、中でも物の不足な時代にん等の手づくりで熱気をみせた仮装行列や野外舞踏会は世相史の上からも記録に残したいものであった。

 この頃は「銀座カンカン娘」や「青い山脈」が巷に流れ、また、NHKの「トンチ教室」や「私はだれでしょう」が人気を博していた。この年に映画で「悲しき口笛」を唄った少女歌手の美空ひばりも先月52歳の生涯を終えた。

 人口は17万5051人であったが、経済界はどうであったのか。一例としてゴウ産業をみると、三馬、第一、東和、西久保、日成、北海、三伸、甲神、北辰、三興、大平などがあった。そして翌年に、朝鮮動乱が起こり、株式市場や業界によっては小樽も特需景気を迎えたのである。

 この年に戦後初めてバナナが輸入されたが、これを知らないでたべた子どもが「このイモおいしいね」と言った時代でもあった。

 流行語は「ギョッ」や「アジャパー」で、よく連発されたものだ。また、社交ダンスが全盛でどこの会場も満員だった。男性はダブダブズボン。女性はロングスカートをなびかせて、ロマンを結んだカップルも今は孫を連れて開港90周年を迎える。

 ここに開港当時と50周年当時の小樽をふりかえってみたが、この間昭和6年には小樽海港博覧会も盛大に開催されている。いま、平成元年に90周年の記念行事が展開される。

 復活は一円玉だけではない。古い新しいではなく市民の熱気ある復活を次代に向けて続けたいものである。

開港50周年「港まつり」のポスター

賑う市内繁華街(花園レインボータウン)。

夏の和服にパラソルなど街着に時代色がみられる。

小樽は洋裁学校が全盛を迎える年でもあった。

コピーは港まつり協賛会制定のレコード広告。

~小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載~