海陽亭

2018年10月19日

開拓政治の舞台 百年のいまもしっかり

 北海道開拓の政治はここを舞台に話し合われたという由緒ある建て物。ことし二月、その百年記念節会が、市内の著名人が集まって盛大に開かれた。

 百年前、松井某が海を一望のもとに見降ろせる現在の場所に‶魁陽亭〟と名付けて料理店を開いたのが始まり。百二十畳敷きの大広間は創建当時そのままで、柱や張りに少しの狂いもない。この大広間を舞台に本道だけでなく日本の重要な政治が語られた。樺太三十五度線確定の祝賀会なども開かれている。

 八十畳の広間には今なおガスマントルが文明の力、電灯と同居しており当時のおもかげをしのばせる。『電気のない時代でしたから、ガスマントルは当時は文明の力でした。馬車や陣地記者でやってくるお客様はみなさん紋付き羽織りはかま。どれだけ大勢のお客様がいらしてもよいように、大広間を含め十いくつの部屋を用意してあります。』と現在のおかみ、宮松幸代(七三)さんはいう。お客同士が顔を合わせないようにと玄関を三つ設け、門番をつけていたという。

 名前も先代宮松コウさんの父が長谷川勝平氏から買い受けて‶開陽亭〟にさらに昭和八年に今の‶海陽亭〟と二度変わった。

 現在十三の部屋があり、建て物の広さはて約二千平方㍍。豪勢な建材を使って建てたものだが、見晴らしのよい高台の上にあり、百年風雨でいくぶんいたんできているという。それでも大広間だけは今なおしっかりして『どのような材料で、どこの大工さんが建てたか詳しいことは存じませんが、かなりお金をかけたに違いありません』と宮松幸代さん。

 この海陽亭も第二次大戦中は海軍の寮となり、将官の出入りも激しかった。大正のころ、大雪で東側の小室の屋根がこわれたのと終戦直前、がけくずれで板谷倉庫を押しつぶしたことが、海陽亭の事件らしい事件。

 この海陽亭、観光ホテル的なものにしたらどうかという意見も一部にあるが、大切な明治の遺産でもあり、ぜひ保存してほしいという激励もあって、宮松さんは『昔の姿をいつまでも残したい』もの静かなことばの中にも、海陽亭の行く先を話している。

~小樽の建築 北海タイムス

昭和43年7月24日~8月11日連載より

 

 

海陽亭の管理が東京の会社になった と 聞いたので出かけてみました。

工事中でした

以前はこの場所にも建物が…。

どのように

活用するのでしょうか?

海陽亭