夏堀正元

2018年07月30日

よくもわるくも日本人

■13人のマスコミ花形旗手たち■

 

よくも わるくも日本人

≪ヘソなし文化時代の幸福と不幸≫

―〈まえがき〉にかえて―

 いまは、ヘソなし文化の時代です。つまり、中心のない、なんとも頼りないムード文化の時代だ、という意味です。

 ヘソなし文化は、たとえば、テレビによって代表される今日の視聴覚文化の本質です。皆さんはテレビのチャンネルをカタカタとまわすでしょう。すると、あのカタカタという軽薄で耳障りな音が前奏曲となって、みなさんの、あえに‶文化〟なるものが届けられどこのチャンネルをひねっても、その‶文化〟はだいたいおなじようなものです。おなじように退屈で、騒々しく、無責任な文化のパターンが、朝から晩までわたしたちに襲いかかってくるのです。わたしたちはテレビの画面が動いているあいだ動いて、思考停止、判断停止の状態に放置されます。かつて大宅壮一さんが、テレビの効用は「一億総白痴化」にある、と痛烈に皮肉ったのは、まさにその憂うべき状態を示したものでした。

 いや、わたしはべつに、いまさらわかりきったテレビの悪口をいおうと思ったのではありません。実は、ヘソなし文化に襲われているわたしたち自身、ヘソなし人間になっている、ということをいいたかったのです。

 わたしたちはいま、大量生産、大量消費、大量伝達の大衆社会のなかにあって、完全に個別的な(パーソナル)ヘソをとられて、おなじ型に鋳造され、社会の巨大な歯車のなかで、やみくもに、そしてちんまりと回転させられています。

 しかも、わたしたちはおなじようにやたらに忙しいのです。ふしぎなことには、わたしたちはなぜそんなに忙しいのか、つきつめて考えるほどに、かえってよくわからなくなります。だが、わからないままに、その忙しさこそ、生きている唯一の実感となってきているのだから、困ったものです。(最近激増した‶イソガシ馬鹿〟という新種は、忙しさをあたかも勲章や宝石、あるいは恥部のように、他人にみせつけて自慢している一種の精神的フーテン族です)

 それはともかく、私たちはときに、ヘソなし人間であることに反抗したくなるのは当然です。

 「こんな社会では、人間はあまりに惨めで孤独すぎるじゃないか。オレは、オレのヘソが欲しい!」

 というわけです。

 そこで、ヒステリックになって、せめては余暇(レジャー)のなかで‶ヘソ探し〟をしようという寸法ですが、残念ながら、こんにちの人間は孤独ではあっても、もはや孤独ではいられない、という厄介な宿命をもっています。

 ですから、余暇をすごすときでさえも、金魚の糞のようなおつながりの団体旅行となりあげくのはてにむなしいドンチャン騒ぎで終ってしまうのです。しかも、その理由たるや

 「結局は他人と一緒におなじことをした方が気が楽だ」という恐るべき画一主義なのですから‶孤独であっても、孤独でいられない〟宿命はよほど根深いものといわなければなりません。

 と同時に、この‶宿命〟の上にこそ、こんにちのヘソなし文化―マスコミ文化―視聴覚文化が成り立っているといえるのです。なぜなら、わたしたちはこの宿命ゆえに、「ノゾキ」を必要とし、「情報」を欲し、社会の動きが一目でわかると錯覚しうるシンボリックな「ヒナ型」を要求しているのですから-。

 ノゾキ趣味、スパイ主義、便宜主義がいわばヘソなし文化をささえている三本の柱である、ということができるでしょう。そうして、その三本の柱が‶よくもわるくもヘソなし人間であるこんにちの日本人〟をつくりだしているのです。

 

 わたしがここでとりあげた十三人の人たちは、それぞれの分野のすぐれたチャンピオンであり、人気者です。マスコミに登場する機会も多く、その意味ではよくもわるくも日本人の代表とみることもできます。

 しかし、彼らにしても、ヘソなし文化と無縁でいるわけにはいきません。それどころかむしろヘソなし文化と深くかかわりをもっているというべきです。

 ある人は、ヘソなし文化に必死にヘソをつけようとし、ある人は、ヘソなし文化そのものと化そうとしているようです。「自分こそ日本のヘソだ」と自負しているような人もいれば、」「いまさらヘソにこだわるな。ヘソなんかなくたって生きていけるじゃないか」とタンカをきる人もいます。 

 そうかと思うと、「キミにヘソがなければ、ヘソを売ってやろうか」といわんばかりの教祖じみた人もいますし、自分のヘソばかりぴかぴかに磨きたてているような人もあるようです。また、ヘソなし文化ヘソの遠隔操縦者もいて、一見ヘソなし文化にかかわりがないようにみえながら、実はヘソなし人間を巧みにコントロールして、ヘソなし文化から利益をあげている人もいるようです。

 話はちょっと違いますが、わたしは‶根性〟とか‶ド根性〟という流行語はあまり好きではありません。」それはあまりに多く、出世欲、名誉欲、金銭欲に根ざしたガムシャラなエゴイズムを正当化する言葉として使われるからです。さらにいえば、日本人特有の‶我慢の哲学〟-忍従のド根性となり、目上の者にたいする忠誠のド根性、といったかたちで使われるからです。

 だから、わたしは「ヘソより根性だ」とか、「ヘソというのは、つまり、ド根性のことだ」とかいう人には、まず疑いの目をむけることにしています。

 妙な話になりましたが、わたしがあげた十三人の人たちの生き方-ヘソなし文化への姿勢は、それぞれ興味深いものがありました。埋没型、順応型、抵抗型、自爆型、攻撃型などですが、そうした姿勢を通して、現代日本人の生き方の典型が、ある程度つかまえられると思うのです。

 それとともに、彼ら人気者の素顔から逆に、彼らに人気をあたえた今日の‶よくもわるくも大衆社会〟のありようを探ることができるのではないか、と考えてみたのです。

 なお、これらの文章は、月刊誌、週刊誌に掲載されたものに加筆した分と、この小著の出版にあたって、新たに書きしたもの(・・・)があることを付記します。

  一九六七年七月

         夏堀正元

 

〈著者略歴〉

夏堀正元(Мasamoto Natubori)

1925年小樽市に生まれる。早稲田大学文学部に学ぶ。

主なる著書「罠」(光文社)「愛の傷み」(光文社)「鎖の園」(新潮社)「蝕まれた愛」(集英社)他。

評論「サラリーマン」(三一書房)他。

 

発行所/ 共同企画 出版部

 

『図書館には夏堀正元 著の出版本が30冊程(もっとあるかも)?ありました。』