高曾火山灰の街 七

2021年03月19日

有樂街 公園通り今昔

寫眞上は明治三十六年に撮影した火山灰の山

大正十一年頃テニスコートをつくる時小樽として火山灰をどこから持つて來たらよいかと心配した事があつたがその時立派な火山灰を大した手數もなく持って來た、どこから掘つて來たといつたら公園館の裏手からだといつた、そこで思ひ出したのであるが今花園町の鈴蘭街よりその裏手にあたる繁華の中心となつてゐる處は今から二十五六年前は火山灰の山であつたのだ麻田商店と松竹座(以前は住吉座)の間はまばらな人家でその向い側は全部山であつたのだ第二大通りの低目の處から山に登り子供等が兵隊ゴツコをしたりするによい遊び場所であつた、それが何時の間にか掘下げられ劇場が出來たり小料理店が出來たり全く桑田變じて海となるの觀を呈した、前記の火山灰はその最後であつたのだ雨あがりの時なぞどうしてその附近が路が良いのかなーと言つたつのがあるが火山灰の道路であつたので水引けがよかつたのでその頃の小樽名物の悪道路に比しそこの一帯は申分ない歩道であつた、この火山灰の山から思ひつくが第二大通から花園學校までの間までのも起伏した小丘陵で中央には池もあつて鮒などが釣れた、この廣場は花園學校の戸外運動場のやうなもので兵式體操なぞよく行はれたものだ椿區長の時代水産博覧會がこの廣場で行はれは貧弱な水族館が設けられたものであるが當時としては非常に珍しかつたつものだその折の建物がそのまま今の救世軍の宿舎として殘ってゐるが當時をしのぶ唯一の遺物である

下は公園通り

~小樽今昔ものがたり(上) 変る地帯 七 昭和十年十二月より

 

公園通り

第二大通り

麻田商店

茶色のマンションが住吉座のあった場所

花園小学校