その昔・傳染病院 六

2021年03月18日

今はモダンな市役所

躍進途上の大小樽市は數年前から全市民協力一致各方面に働きかけてゐるので文字通り更生小樽となつた、曰く港灣の整備、曰く道路の美化曰く工業、産業方面への進出、曰く國際港としての全國的位置向上、曰く、曰く、で、活氣は市中に充滿し全市民の面上にも活氣があふれてゐる。今や更に一歩前進して高島町、朝里村の併合に乗り出し大小樽建築に拍車をかけてる一面商港都市として大小樽を廣く中外に紹介宣傳し認識を高める樣に明後十二年には産業拓殖振興の大博覧會を開催すべく道廳を初め關係方面に呼びかけてゐる、しかもこの繼費は一百萬圓といふのであるから年の博覧會としては全國にもその例を見ないといふスバラシイ意氣込みである。

この大小樽市も五十余年前の明治十六年頃は人口一万一千五百四十人、戸數二千四百九十三戸で當時は小樽郡と稱され現在の開運町附近が中心街で例のコンタン町の盛んな時で金か人かとまで言はれたものだ、從つて傳染病院の樣なものは人目のかからぬ野つ原につ建てられたその位置が現市役所の建つてゐる處で當時は全くの草の繁る野原の眞中現在の第一大通り大關料理店附近迄は家が一面に無かつたといふのであるから驚く變遷ぶりだ。

今や我小樽市は二萬九千余世帯人口十五萬三千五百を突破し全國有數の年で港灣も貿易額から見れば第十位だ、しかも見るかげもなかつた傳染病院の跡には二十數萬圓を以て市民の寄附で市の心臓部市役所が建設され全市に號令を下してゐる。東京以北になしと市民自慢の小樽驛とともにわれ等市民の誇りの一つである

寫眞(下)は明治十六年當時現市役所の位置にあつた傳染病院前方は水天宮左方の人家は現大關料理店附近

(上)は現市役所

~小樽今昔ものがたり(上) 変る地帯 六 昭和十年十二月より