小樽の明治人

2018年10月23日

天皇ご上陸前の大火災

 バイクを恋人のように抱いてフェリーからおりたヤングが、

 「これがコタルか」

 といった。

 いわれた天狗山に雲がかかる。

 コタルでは羞しいのだ。

 でもオタルがコタルでもいい。

 よくぞ来たなウェルカム。小樽はニンゲンが欲しいのだ。コタルでもいいではないか。むかし昔、北海道はマツマエといわれていた。

「どこさいく?荷物もって」

「マツマエだ」

「マツマエのどこさ」

「コタルだ」

 明治の人もそういったかもしれない。

 寿原弥平次は秋田の角館の商売先でぬるい茶をすすりながら、秋田のオヤジとババアの駄弁をきいていた。

「-ところで天皇さんがマツマエにいらしゃったといいますが、こっちのほうはお通りにならなかったようで」

「いや船だ。軍艦だ。そのほうが早いんだ」

「どこにお揚りになったんでしょ」

「コタルとかオタルという港ときいているが」

「あの大火事でまる焼けになったところでしょうか」

「そうマチがみな灰になったそうだ」

 寿原弥平次の目が思案にかわったのはこのときだった。質問になる。

「小樽はどのくらい燃えたんです」

「さあ、わしら新聞とってないから判らんが、ついそこの郵便局の人がくわしいらしいよ」

 明治十五年の、雪がそろそろ舞う頃だった。

 天皇さんのご上陸と大火災が弥平次の頭ん中で重なる。

(天皇さんがおゆきになるんだから、これから発展する。)

 明治天皇は大元帥の軍服がよく似合う。お顔は、いまの三笠宮家のご長男の寛仁殿下を想像すればよい。ヒゲがそっくりだ。

 天皇は、上陸地手宮から天狗山を目にしたにちがいない。

(オレと山の神とどっちがえらい)

 で、おつきの武官に訊く。

「なんというのかあの山は?」

 さ、そこまで予行演習していなかった武官に誰かがアレはテングの天狗山と囁く。

 ただしアイヌ語ではなんというか、当時はまだアイヌ語読みでなかったのか、これは筆者の疑問。

 寿原弥平次を中心とする一族は富山県の福岡町というところでスゲ笠づくりと販売を代々の業としていた。

 スゲ笠はテレビの時代劇に出てくる股旅役者がかぶるアレである。つくるのは一家総出でやるが、売る方は行商になる。ただ行商といっても一枚一枚売るのではなく各地の雑貨屋と契約をむすんで何十枚という数で卸すのである。東北六県それに東京もエリアになる。

 小樽の火事のニュースを訊いたのは、その得意先の一つだった。あとで調べてみると、小樽が全部灰になったわけではなくコンタン町という繁華街から出た火が当時の中心地に被害を及ぼしたということだった。

 しかし五百八十戸焼失は明治天皇ご来道前のことなので大きなショックだった。明治十四年五月二十三日のことで、芝居町の日野屋という雑貨屋から出火、春のフェーン現象というのだろう忽ちとなり金曇町に燃えひろがった。金曇はコンタンと読む。色町だった。

 当時の小樽はコンタン、芝居町をふくめて奥沢の入口、いまの信香町、勝内の川べりといった三角地帯に役場も郵便局も警察など主要な建物が遊廓といっしょに並んでいた。堺町方面にいくには有幌の崖下の海辺通りを利用するしかなく、高島祝津は別の漁業基地を形成して、あまり交流はなかった。戸長役場も別々で、有幌のほうもニシン場として機能していた。筆者の子供のころは有幌で海水浴をやったもので、ヤングはいうだろう「ウッソー?」。

この有幌に目をつけたのが寿原弥平次であった。クイズ「弥平次は何をここではじめたか?」

寛政10年小樽・高島(市史)

小樽裁判所 後志盛業図録より(市史)

~見直せわが郷土史シリーズ⑲

小樽市史軟解

奥田二郎 より

 

今日

歩いていると

すてきな

お宅を

見つけました

よ~く見たら

こちらのお宅に

スズメバチの巣?

『近くにお住まいの方や見学の方は気を付けてください。』