明治人の小樽②

2018年10月24日

スハラ一門の登場

 大火事のあとにはセトモノが売れる。

 昔からいわれたことだが、明治十五年の寿原弥平次はそれを現実のものとしてうけとった。

 折からの不況である。西南戦争のためにお札をどんどん刷ったから、紙幣インフレが全国を覆った家業のスゲ笠売りが思うようにいかない。一族郎党をあつめて節約を宣言した寿原弥平次だが、このままでは代々つづいたスゲ笠売りがストップになりかけない。

 焼跡の小樽へとびこんでいって一か八かセトモノを売ってみよう。この弥平次の発想がのちに寿原財バツといわれる金豪のいとぐちになった。

 明治十四年小樽コンタン町の大火事

 明治十五年寿原弥平次の小樽上陸

 いまなら世の中のテンポが早いが、当時は歌が一つはやると、その歌が全国にゆきとどくのに一年、さらに三年五年も同じ歌がうたわれるという時代だから、弥平次がやってきたのはまだ焼けあとがすっかりかたづいていないときで、この時分の商売の対応のしかたではおそいといえなかった。

 さいしょは有幌の店、といっても食べもの屋の軒先を借り、ゴザを敷いてセトモノを並べた程度であった。

 セトモノは専門ではないから山形のセトモノ屋に現物を借りて売り、売り上げを等分に分けるという共同形式を一年ほどとった。むろん専門のゴザやスゲ笠も並べた。

 弥平次の狙いは当たった。

 一つには場所がよかったからであろう。有幌の海辺通りは小樽の南北をむすぶ要路であったし、近くには住吉駅という停車場が出来たばかりであった。

 いまの街並みから想像しても当てはまらない。住吉神社はまだ浜のほう、現在の双葉女子学園のあたりにあったし、小樽病院のあたりはまだ都市化されないから、有幌、港町といった浜づたいの人通りが混んでたのだ。

 結構セトモノが売れるので弥平次はようやく自信をふかめた。

 しかし三年ほどは人の店の軒先を借り、弥平次は秋口には故郷の富山県福岡に戻って家業のスゲ笠づくりにせいをだした。

 要するに小樽でのセトモノ売りは最初腰かけにすぎなかった。

 しかし小樽は幌内鉄道のスタート地点になってから回船港として賑やかになっていき、全道の経済の要衝地としても雑こくが集まり、一方では昔ながらニシン豊漁をつづけている。

 さらに決定的だったのは日清、日露戦争による勝利で、カラフト航路がひらけてから物資の往来が何倍にもふえ、道産農産品をはこぶ南洋航路もひらけるのだった。

 人口がふえる、モノが売れる…とそこで寿原弥平次はセトモノばかりか日用品や輸入品も手がけるようになった。

 とかけばカンタンに彼の小樽商法が成り立つかにみえるが、内地から一旗をあげるべくやってきた連中がひっかかるおとし穴は一に酒色、二にバクチ、三に火事であった。

 寿原一族の成功は一と二を極力排したことだが、三の火事は明治十八年、明治二十年の二回類焼の厄に遭っている。

 なにせ紙とペラペラの木で成り立っている腰かけ稼ぎ人たちの住まいである。一度どこからか火が出ると際限なく燃えひろがる。バクチをやらずに堅実に産を成した連中は、そこで石造の倉庫をつくるようになる。大てい札幌石山産の軟石をつかった。運河沿い倉庫はじめ、ぽつんと今日もそうした倉庫のなれの果てがみえるが、寿原ばかりでなく小樽財バツになった連中で火事に遭わないのはなかったろう。

 寿原弥平次が小樽にきたころは近辺の山の中で殺された熊が毎年十頭前後いたし、シベリア系の大きな狼が群れを成して毛無山あたりを走っていたという。熊は一頭殺すと三円の奨励金がもらえた。フロ八厘、ヒゲソリ六銭、髪結い五銭である。

 寿原は小樽でやがて太っていく。

有幌のニシン漁(市史)

住吉神社 後志盛業図録による

住吉駅(現在南小樽駅)

 

~見直せわが郷土シリーズ⑳

 小樽市史軟解

 奥田二郎 より