明治人の小樽④~㉒

2019年01月06日

板谷財閥のスタート

 杉野はいずこ……

 という昔むかしの軍歌をご存知か。

 あわれや杉野兵曹長は行方知れずになり探し求める広瀬中佐も砲煙弾雨のうちに救国の花と散り果てる。日露戦争旅順港閉塞作戦の一幕だが、もう八十三年前になってしまった。

 つまりロシヤの太平洋艦隊がペトロパブウスク(一〇九〇六〇㌧)に司令官スタルタ中将らが乗り組み、その総トン数五十一万㌧がシナからの租借地旅順に入港して東郷サンの日本艦隊をやっつけるべく待機している。それを港の入口に船を沈めてロシヤが出られないように出られないしようということなのだが、この閉塞作戦は明治三十七年の二月八日夕刻からおこなわれた。

 むろん指をくわえてイワンはいない。日本船が近づくと旅順の山を占領しているあちらさんからサーチライトがそれをとらえ、そこへ雨かアラレと砲弾をぶちこんでくる。

 まず天津丸(二八〇〇㌧)、武蔵丸(一二〇〇㌧)の順で月のおちるのをまってつっこみ、船内に爆弾仕掛けて沈めるのだが、弾雨はげしく、一緒に進む海軍の水雷艇が右往左往して、なかなか計画通りにいかず、中には中途で座礁する船も出てくる。

 そこで駆逐艦を繰り出し、御用船の武州丸(一六〇〇㌧)、千代丸(三七〇〇㌧)第二福井丸(四〇〇〇㌧)、弥彦丸(同)、米山丸(三七四五㌧)を沈めるべく第二次作戦を発令し、なんとか入口ふきんに沈めることができたが、その指揮をとったのが広瀬中佐で、全員退艦してボートにのったものの杉野兵曹長の姿がみえず、とめるのを振りきって引きかえし「杉野ッ杉野はおらんか」と声をあげたとたん船もろともフッとばされた。とまあそういうわけなんだが、このとき沈めた御用船の弥彦丸と米山丸が小樽の板谷商船のものだった。

 つづいて三次作戦で十二隻を沈めるが、これは板谷とは関係ない。関係のあるものは以上の二隻の戦後補償である。ニッポンが負けていれば太平洋戦争のように政府も業界もパーということになるが「ニッポン勝ったニッポン勝ったロシヤ負けた」という当時の歌にあるとおり大穴を当ててしまったのだから政府も後始末が大変だ。

 当時の総理大臣は桂太郎、海軍大臣山本権兵衛で、

 太郎「ゴンちゃん、勝っちゃったよ」

 「しかたがない。おサツ(札)をどんどん刷るんですな。補償金が大変ですよタロちゃん」

 と二人はいったかどうか判らぬが、板谷は戦後、御用船と爆沈分の保証を目の玉とび出るほど貰って日本リッチの番付の五傑に入ってしまった。

 補償額は今となってはハッキリしないが二千万円だといわれている。店の小僧の給料が二円のときだ。いまになおすとなんぼか。

 板谷宮吉の初代は新潟の刈羽郡宮川村の出身で角栄さんちの近くだ。

 父が早くに死んで片親育ちだが三男なので口べらしに他に出なければならない。

 そのころ北陸の子どもたちはティーンエイジャーで北海道にやってきて何か仕事をおぼえる習慣があった。

 丸井今井の始祖の今井藤七は新潟の三条から明治四年に札幌へやってきて露天商まがいの店からはじめているが、北陸の若いモンは仕事をおぼえて故郷に戻るか函館か小樽とか北海道に居つく、というライフスタイルに分かれたが、大抵は福山あたりでニシン漁の手伝いをして世間をおぼえてから小樽をめざした。札幌へいくという今井藤七のばあいは函館のセトモノ屋で小僧をやり商売を知ったから開拓使のいる道都札幌にねらいを定めたのだが、漁業景気を知った連中の多くは小樽をめざした。当時カネ持ちは日本海沿岸の網元となって一夜にしてニシン大尽になると、豪邸を小樽にかまえてそこから号令を発したが、十三歳で福山にきて漁場の手つだいをして年季のあけた板谷は、函館へゆく友人に手をふって小樽へ向かった。

小樽内弁天社より眺望(市史)

信香町郵便局(市史)

弁慶号試運転記念。手宮駅前(市史)

~見直せわが郷土シリーズ㉒

小樽市史軟解

奥田二郎 より

~2018.11.29~