明治人の小樽⑥

2018年12月01日

左翼はげしかった街

 寿原一門の商売は港に大和船がいっぱい入りきれぬほど停泊していれば、それと併行して伸びた。内地から米塩、鉄道資材などを積んだ船がどんどん入ってくる。こちらからは石炭、ニシンかす、木材、雑穀が出ていく。それで奥地が発展すればガラスとか家庭用品が農漁村にうるおすことになる。

 だから座売りより出張販売が多くなり、ちょうど洋風化されていく頃にぶつかったのでウィスキーやビール、それに巻きタバコ、缶詰、石鹸、口紅、白粉、コウモリ傘、メリヤスシャツなどの需要が多くなっていく。板谷が商船でデカくもうければ寿原は足でこまかく利益をあげていくといったのが明治小樽の商圏内であった。もうけを三つに分けて不動産買いが三分の一、証券類三分の一、預金三分の一というぐあいにするのが堅実といわれた時代であった。

 ミナトの出船入船が活発になり人口がふえる。いろんなかたちのものがそれにともなう。ハシケ人夫などもふえる。そこで船仲仕、沖仲仕、倉庫仲仕の組合が生まれ、自由労働者にもリーダーがあらわれる。

 戦前、全国に名を馳せた小樽の労働攻勢は、そうした地盤から生まれた。のちに社会党から衆院副議長になった正木清はこのころ小樽の合同労組委員長であったし、正木のあとに副議長になった椎熊三郎も労働運動に理解のあった小樽民政党の出だ。また戦後三代目の道議会副議長になった鈴木源重は小樽で赤旗をふって小林多喜二の「不在地主」の中のモデルとして出てきている。

 「不在地主」は実際にあった話で、富良野町の田畑の所有者磯野進が悪役として登場する。磯野は小樽商工会議所の会頭でもあったので小作人一同はムシロ旗を高くかかげて小樽色内町の磯野邸前にすわりこんだ。

 それをあおっているのが正木であり鈴木であり境一雄、竹内清らであった。「われわれ小作人の待遇は犬猫にひとしい。それなのに農場主は現場を見にもこない。われわれの待遇改善をうけ入れよ」

 小作人にかわって小樽のリーダーたちが叫び、農場からやってきた小作人の奥さん連中が泣きわめく。スピーカーがないからメガホンだ。一方では毎日演説会をひらいて市民に訴える。小樽の市民はこういうことが好きで自分の腹が傷むわけでないのに大入り満員。というのは演説会では立会いの警官が点数をあげるために必ず弁士の一人二人をたい捕する。それが面白くて会場で今か今か待っているのだ。ヤジ馬である。「-本日もここにこうして警察が監視いたしております。かかる警官は金持の不在地主らの番犬でありまして…」

 「弁士中止ッ」

 とお巡りが演説中止を命じ、なお続けようとすれば弁士を引きづりおとしてブタ箱直行の仕組みになっている。民政党の椎熊でもこれを何回もやられ、椎熊の演説となるとそれがおもしろくて会場へおしかけるわけで、戦後椎熊の票が固かったのはそうした人気が根付いていたからだ。

 実際には磯野農場より寿原や板谷それに拓銀の所有する農場がずっと大きく、板谷のばあいは板谷三大農場といわれる美瑛の一千町歩を解放して世の金持連中をビックリさせているのだが、一方では太平洋戦争で在籍八万㌧といわれる所有船のほとんどが決められ、残る一万㌧余になってしまい、むろん補償もない痛手をこうむっている。

 結局、不在地主事件は西尾小樽警察署長がうごいたりして磯野が負けたかたちで調印となったが、磯野にしてみれば無念の歯がみであったろう。

 佐渡で生まれ二十いくつかで来道し、磯野家の養子になり汗水たらして田畑を開拓、酒ものまずタバコをすわず、いま手が足りないから小作にまかせたが、飼犬に手を…ということだろう。昭和二年である。

 おなじ年の六月には山甚浜名甚五郎というハシケ人夫をあごでつかっていた大金持が人夫をクビにしたことから労働攻勢に火がついて、二千三百人の沖仲仕のストライキに発展し暴動化の一歩手前、港の機能停止の大事件が発生している。翌年が小樽高商の軍事教練反対の学生ストとなるのだが、昭和三年全国の警察に特高課新設され、翌四年四月の道内のアカ百十七人の一大検挙になる。

 小樽のマチはこうして戦前までは話題の宝庫であったが……。

邸内にあった初代板谷宮吉の像(戦時の鉄回収でなくなる)

信香にあった小樽電信局(市史)

明治の商家

 

見直せわが郷土シリーズ㉔

小樽市史軟解

奥田二郎 より

~2018、12.1~