原野と谷川に土人がぽつんぽつん~⑪

2019年01月06日

 どこをみても谷地であり原野である。人の通ったあとを通というのか道路というのか?いやいや松本清張というところのケモノ道であり事実、夜はコンと鳴くやつがとおり時には山のオヤジが立木に背中をゴシゴシやっていた。

 町の名だけは開拓使が点数かせぎに明治早々につけまわったが、いまの何々町という感覚では想像もつかないほど小樽の海岸集落は、一握りの天地でしかなかった。

 たとえば、入船町から上がる永井町

 明治元年(一九〇八)、あでは草っ原で民家がチョコンチョコンと見えるだけだった。なぜ永井町かといえば開拓使の吏生永井ナニガシが住んでいたから、そうなった。

「どごさいぐ?」

「ナガイさんのいる辺りまで。」

 やがて永井町になり、信香町など旧小樽衰微とともに商店が軒をならべ、当時の繁華街になった。

 入舟町

 私の本籍は長いこと入船町であった。

 いまも目に浮かぶ。小さな川がまん中を流れ、そのへりに柳の並木が垂れさがっていた昔の風情を。

 最初、水天宮山と量徳町間のせまい谷地だった。つまり、谷川である。

 明治四年頃までは四、五軒のアイヌが住んでいたが、五年に開拓使がアイヌを他に移し、入船町と命名し、貸座敷営業を許可した。

 下駄屋の「マル定」、同じく妓楼の「マル定」、隣も、玉川多兵衛の妓楼ができて次第に賑やかになっていく。

 下手の秋野クスリ屋あたりには三升屋という銭湯があり、となりが毒殺事件を起こした豊原渋斉という医者。平沢貞通のお手本か。

 明治十二年以降に商店が立ち並び、中でも岡田呉服店というのは港町への曲り角に大きくかまえて繁昌した。

 「秋になった。恰度カネも入ったし、岡田屋にでも行ってくるか」

 角江薬局、高頭小間物店、堀井和洋小間物店、北水の風呂屋、榎呉服店、「イナマス」瀬戸物屋、早川茶紙店、永井町への角の村林下駄屋、その向いの一二三楼など色町と商店街が一緒になっていた。

 誰かご子孫はいませんか。早川などは残っている口ではないかと思うが、日本は十五年戦争で人と家の所在を大きく変えてしまった。

 次に明治十四年のコンタン町大火がきて、貸座敷が住ノ江町に移転(十七年)し、入船と住ノ江をつなぐ道路が夜おそくまで賑わったが、小樽の商業の発展史に入船町の役割は欠かせない。戦争中までも問屋街として軍部の御用をつとめたものであった。

 開運町、若松町

 その頃はまだ耕地でわずかにアイヌがチラホラ住んでいたが、明治五年の土人移転とともに命名された。若松町の人口増は後発。

 映画館「若松館」は花園の映画館に比べて三流といえたが、小樽は映画においても函館とともに先進国で、小樽、函館同時上映が札幌にかかるのは二、三ヵ月あと。そこで映画好きは汽車チンをかけて札幌から小樽まで観に来たものなのだ。 

 明治三十年代に末広座(のち住吉座)、手宮座、早川座、互楽亭、旭亭、福寿亭などがあったが、明治三十三年は活動大写真が二回きている。(あとは義太夫や芝居)。

 賜皇太子殿下御上覧

 賜独逸皇弟殿下上覧

 日本卒先

  活動大写真

  大声発声機(ものいうきかい)

            住吉座

 という宣伝で大人気を博した。

 大正に入って公園館、神田館、さらに千代田館、錦座(松竹)などが生まれたが、神恵内生れの大興行師本間誠一が若いときにビラくばりをやったという若竹館も大正年代の産ではなかったか。

 いまクン章をもらい道内の絵かきのオヤ分になってしまった国松登なんかが食うためか少年向きのハーモニカ公演をやったのもこの若竹館あるいは手宮館などであった。

 潮見台町

 明治元年までは原野だった。人家二軒ほど、それより隣の竜徳町が門前町として栄えていたという。

 新富町、眞栄町

 明治五年頃はまだ戸数七、八戸。並んで高砂町があったが、これは色町金曇町の一部だった。

 奥沢村

 勝内川下流の繁栄につれて上流に人家がふえ新たに一村設けた。

 住初町

 明治十一、二年頃まではアイヌ人の十五戸ほどがいた。十四年、草分けの土人居住地の意味で住初と命名。

妓楼の南部屋。屋根に石がのっている。

~見直せわが郷土シリーズ⑪

小樽市史軟解

奥田二郎

より

 

を見ると

明治三年頃の町名

明治六年頃の町名

が、わかります。

小樽市の

町名の変遷が

よくわかる資料です

~2018.12.12~