古き良き「小樽のひとよ」白系ロシア人の思い出~⑬

2019年01月06日

 豪球ワージヤ

 小樽はロマンの町である。

 老人手帖をもらうとロがオになってしまい、昔の立った頃を思うことしきりになる。悲しきは小樽の男、その習性である。

 小樽のロマンの中に白系ロシア人のメルヘンがある。日本が十五年戦争に突入した前後のほんのわずかな年月だったが、それを体験した人は、六十半ばから七十何歳になっている。

 束の間の青春の思い出になるから、淡い海霧のような情熱を浴びたことを、その時代を知らぬヤングになんと説明したらよいのか。筆舌につくしがたしといったら、それは死語だと咄うだろう。

 五十何年か前、私の量徳小学校の時代、小樽一の少年野球投手が量徳を打ち負かすためにやって来た。

 量徳の校庭は狭かった。ものすごい速球で中日の近藤のデビューのように、バッタバッタと量徳打者を斬ってとっていくワージヤが来たために、校庭の狭さが一層目立った。

 私が白系ロシア人のアレキサンドル・ワージヤを見たのはそれっきりだった。

 後年思った。ワージヤが、もし野球を続けていたら、旭川のスタルヒンみたいになっていたろうと。

 ワージヤは、野球より勉強が好きだったらしい。

 そのワージヤが、五十年ぶりで小樽にやって来た。つい、この夏のはじめ、ワージヤと同級生のひとりが、ワージヤ健在を知って同級生相集い、ワージヤをアメリカから小樽へ呼ぶことを決め、そして、この夏のおわりに実現した。

 呼んだのはワージヤを労わりつつ一緒に学んだ小樽庁立商業のOBたちで、そのリーダーが板谷商船本社(色内町)の専務をやっている品川清さんである。私も随分お世話いただいている危篤の人で、あとでワージヤに取材すべくハガキを品川さんに出したら、わざわざ電話でワージヤの日程を知らせてくれたが、若干の時間の関係で、私のワージヤ取材が不能になった。

 私が聞きたかったのは、ワージヤの兄の消息である。

 アレキサンドル・ポロピヨフ。この一家は白系ロシア人で、亡命流浪の果て日本にながれ、札幌から小樽へ。そして、公園通りで洒落たチョコレートの店を開いていたが、十五年戦争の入りかけに憲兵の命令で、荒木という日本姓を名のるようになっていた。

 ポロピヨフは、庁商の円盤隊の選手で、我々陸上人は彼をアレキ、アレキと呼び、彼は彼で日本人顔負けのジョーク(無論日本語)をとば、皆をよく笑わせるユカイなアスリートであった。

 ポロピヨフの最後

 早大競走部の砲丸投の雄だった樽中出身の野口徳雄さんの紹介で、昭和十年春、早稲田に入ったのは、私もアレキも一緒だった。

 私は一年で中大へ移ったが、アレキが三十七㍍くらい投げて、レギュラーになったと聞いて喜んだものである。

 戦後、彼らがどうしているのかと気にかかっていたが、早大選手でベルリン・オリンピックの走高跳で五位に入り、その後、朝日新聞の記者として下山事件の他殺説を一冊の本にまとめて、有名になった矢田喜美雄さんのその一冊で思いきやポロピヨフの消息を知った。

 矢田が下山事件を追いかけているうちに九州の大村へ行った時、そこにいた米軍諜報部隊の将校になっているアレキに会って、級友を温めるとともに情報を得たというのだ。

 そして、その後のアレキ…?

 矢田は書いている。

 「ポロピヨフは、それから、間もなく朝鮮戦争で戦死したという」

 いまでも、公園通りを歩くと青い目、赤い毛のノッポが、ひょっこり出てきて

 「円盤投げは、鍋のフタを投げるのと違うってこと分った?」と言いそうな気がしてやりきれない。戦争がなかったら、小樽のチョコ屋の二代目になっていたろうし、戦死しなかったら、ワージヤのようにフロリダに住んで、孫と遊んでいる年頃なのだ。

 作家船山馨氏の出世作の「北国物語」で、札幌の白系娘を主人公にして哀れにも、果敢ない小説を書いているが、それは露人が北海道のあちこちにいた時代を知らぬ読者には、伝わりにくいロマンの町の思い出なのだ。

 

1987月年9月8日 ワージヤさん日和山にて

~見直せわが郷土史シリーズ⑭

小樽市史軟解

奥田二郎 

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

小樽公園から水天宮に続く公園通り

チョコレート屋さんがあったのは

こちら側でしょうか

それともこちら側?

今年もしめ縄づくりに参加してきました

 

~2018.12.13~