古き良き「小樽のひとよ」誘致OK。だが、金は地元でつくれだって~⑮

2019年01月06日

小樽高商、地元新聞大反対の中誕生

 フンドシの先生

 今は亡き郷土史家越崎宗一氏によると、小樽高商設置要望の第一声は、地元の弁護士・道会議員の小町谷純によってなされた。明治三十年のことだという。

 小町谷といえば昔の道政記者の上畠彦蔵(小樽新聞)が書いた「道政七十年」を思い出すが、それによると札幌駅前の高級旅館山形屋で取巻きどもに、おのろけをきかせていた小町谷に女中が「届ものでございます」と、何やら贈物らしい立派な箱をもってきた。

 取巻き連中さっそくヒヤかして「さすが先生、もてますな。きっとかわいがっているニシヨウ(女性)からでございましょう。さ、早く我々に中身を拝ませて下さいよ」とせがむ。

 もったいつけて、ああだ、こうだという小町谷もとうとう箱を開く羽目に至り、ゆっくりと開いたら、中から出てきたのは小町谷が夕べススキノ辺の待合に忘れてきたキタナーイふんどし、これは小町谷も真ッ赤になり、ふと顔を上げれば取巻き一同影もなし。

 まさかと思うが、当時の大記者上畠が、本にわざわざ書いてあるのだから間違いあるまい。

 が小町谷、いや政治家の古今東西は似たようなもので、なにも小町谷を責めるにあたらない。それどころか小町谷の実力たるや政界第一級といわれ、折りしも来樽の平田法政局長官の歓迎会の席上、北海道一の商業都市小樽に、高等商業学校がないとは奇妙であると演説し、これが高商誘致のきっかけになったといわれている。発言はやがて小樽区会の決議となって、政治へ要請となるが、ときに明治三十二年、今から八十八年の昔だ。

 

小樽区予算と同じくらいの高—い買物

 

 同三十九年に至って国内五つ目の高商を小樽に設置と、これは文部省が決めたが、小樽のモーレツきわまる運動が強敵ハコダテをゴール寸前に抜いたことになる。が、ここで「先立つもの」あるかと、文部省が小樽のフトコロを探る。

 つまり、そんなに高商がほしかったら、建築費は地元でまかなえ、それが出来ぬなら、欲しいところもあることだし……というわけだ。

 誘致に頑張ったのは、代議士金子元三郎や区長椿奏一郎寺田省帰渡辺兵四郎らに小町谷、それに地獄坂のてっぺんに敷地を寄付したのが浜益からきた木村円吉初代、のちの市長河原直孝青木乙松らだったが、お年よりなら御存知の小樽は、北海道一の政友・民政両党のケンカ場で、政友がつくるんならワタシャは団子も食べんというのが民政。それというのも総工費三十七万円のうち二十万円は地元が出せという文部省はガメツすぎないか、なにせ小樽区の総予算(年間)三十万円の時代である。やめろやめろと言い出し、デカデカと派手にかき出したのが民政党の小樽新聞(これは山本厚三代議士、後にその弟子の椎熊三郎という民政党政治家が絡んでいく。昔の日刊紙は政党との連繋で食っていた)。

 「いくら区の繁栄のためといっても三十万円の買物は成金趣味というほかない」と、さいごまで反対論をひっこめなかった。もう札幌・室蘭の鉄道も開通していたが、大人の運賃が三円七銭一厘だから、二十万円は今のどの位に当たるか?人口九万、高商の敷地は三万三千平方㍍。

 快挙!名教授多し

 しかし、話はどんどん進んで初代校長に渡辺竜聖がきまった。渡辺は四十六歳だった。東京高師で倫理学をやり、東京音楽学校の初代校長、中国の袁世凱の教育顧問七年ののち、ベルリンで勉強中に小樽へゆけと言われた。

 雪の二月、渡辺は地獄坂を登った。旅館越中屋からかりたゴム長で雪をかき分けてエッチラ、エッチラ白い息を吐く。明治四十四年、緑町番外地。

 「荒涼たる無人境の観、仰げば外観の未完成された校舎がただ一つ立ち、道は意外に長く汗にまみれる。学校内には

椅子一つなく……」

 と渡辺は、後に書いているが、文部省は渡辺にかねてから訊いている。

 「今後、校長になるには何処がいいか」

 「誰もいやがる学校がいい」

 答えた渡辺の希望がかなったわけだが、それにしても雪に熊笹はあるが途なき通学路で、結局、一期生が踏み固めたなものだ。

 渡辺の心配は、こんなところに良い先生が来るかだが、そこは渡辺の努力の顔だった。

 関〇〇 佐野晋作 三浦新七 福田徳三(以上東京高商より)、津村秀松(神戸高商)、小川郷太郎(京大)、森厚吉高岡熊雄橋本左五郎(北大)などの専任兼任教授に高商自慢になった米英仏独支の外人講師の招聘にも成功し、語学体制が群をぬくにいたった。

 第一期生の卒業生は五十人、京阪や琉球までに及び、道内出身が二十五㌫だった。入学まえに坊主だったり、新聞記者だったり、雑穀仲買人、小学校教員などさまざまで、教授大西猪之助など二十三歳などで、どっちが先生かわからなかったという。

 戦後のこと、私は札幌ススキノの赤ちょうちんでインテリらしき人物と、隣り合わせた。

 話がたまたま小樽高商に及び、応援歌を私がやり出した。

 夕やけ美わし緑が丘よ

 若人の血は燃えてながるる

 「なつかしいでしょ」

 と、その人物にいったのは彼が小樽高商出身だといったからだ。

 「いい歌ですね。どこの校歌ですか」

 私は生涯、常識がジャマして損している。

 トボけてやるのは武士のナサケ。

 「夕やけ美わしは九高ですよ」

 八高はあったが九高なんかあるはずがない。

 「九高?」ひょいとインテリ、首をひねった。

 「次は三校。ああ玉杯に……」

 「違う違う、そりゃ一高だよ、キミ」

 ここに至ってインテリ、われを高らかに憫笑し、うまそうにビールをほすのであった。ああ小樽高商。

 

~見直せわが郷土史シリーズ⑮

小樽市史軟解

奥田二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

明治44年2月に、渡辺竜聖校長が歩いた道を辿ってみました

スタートは明治10年創業

明治45年に建てられた 旧北海道銀行

『工事は始まっていたのでしょうか?』

日本銀行も明治45年竣工

この道を

一つ目の地獄坂

明治35年建築 旧遠藤又兵衛邸

浅草寺も建っていました

地獄坂

カトリック富岡教会 昭和4年建築なので…

この場所には 旧金沢邸(五楽園)が、建っていたのでしょう

(明治32年or37年建築)

さらに、地獄坂を進むと

ようやく

小樽高商

着きました

渡辺龍聖校長が

出迎えてくれました。

~2018.12.20~