小樽映画暮色~㉕

2019年01月06日

エムデン号の頃

 ビデオの時代というのだろうか。

 映画館がいつ「開拓の村」入りするかと思っていたら、なんと近頃はかつてのブームを盛り返しそうな繁昌だという。中味なのだ。モノがよければ需要はある。が、いつまで続くか?

 映画館が消えかかったのは二度目である。

 あの戦争中、多くの映画館が当局から休館を命じられて、そのただ広井座席が縫製工場になり、中にはアメリカへとばす風船バクダンの風船づくりの工場になったところもある。

 動員された働き手は女学生たちだが、女学生といえば小樽にエムデンという第一次大戦の七ツの海で猛威をふるったドイツの戦艦が寄港したことがあって、艦内を市民に公開、とくに女学生大歓迎をやった。たしか昭和三年だったと思う。

 エムデンは小樽港二泊くらいでグッドバイだったが、あとに歌がのこった。

 ♪エムデン号にゃ用はないが

 乗ってる水兵さんに用があるョ

  コリャコリャ(ヒヤヒヤだったか)

 聞いた女学生の何人かが顔を赤くして逃げたというのは、エムデン号を見にいった女学生の何人かが家に帰ってこない。つまり艦内ご一泊ということで父兄が騒いだのは事実のようだ。要するに、‶強制ご一泊〟で、あたら制服のツボミを踏みにじった青い目が良い想いをのこして、小さくなっていく天狗山に手をふったことであろう。(日本婦人の同和力は戦後の風潮をみても世界に卓越している)。

 というのは例によって脱線だが、話を本筋に戻すと、映画館は戦争が末期になると、上映前に観客一同起立して宮城通拝をやった。男と女のすわる席を夫婦でも分ける。でそれに違反しないかと目を光らすのが後部別席の臨席お巡さん、ヒゲをなでなであそこもなでなで?という時代があった。ウソみたいな話だが、ホントである。

 札幌から汽車で

 エムデン号のころはどんな映画をやっていたかというと、岩見沢出身の月形竜之助のチャンバラ、小唄映画の「波浮の港」「君恋し」「紅屋の娘」「砂漠に陽が落ちて」など今日でものこるハヤリ唄の盛り沢山、洋画は活劇のバンクロフトフもの、入場料は25銭~40銭。

 だいたい封切映画は小樽、函館が一番先で、札幌は二ヵ月もおくれ、汽車チンかけて小樽まで観にいくという‶後進国〟だった。

 映画館の数は札幌の松竹、東宝、日活、遊楽、美満寿、エンゼル館など11、小樽は松竹、電気、東宝、日活、東亜、大和、富士、入舟、若松、手宮などが全道一の映画文化を誇ったものだが、戦争になってくると、レビューのときはズロースを股下20センチより切上げてはいけないとか、十五歳以下は入るな、しまいには休館命令が道庁警察部から出されたり、色々な制限がつくようになる。

 活動写真といった映画が小樽へ入ってきたのは明治三十年代で「電気作用活動大写真」と宣伝して洋画を末広座と住吉座にかけてからだが、二つの義太夫や田舎芝居、落語をやっていたもので、稲穂町の鈴木政五郎なる人物がこのほうのオヤ分だった。小屋主でもあり、ドサまわり芸人に出演料を払う立場にあった。

 「活動写真なんか観にくる人間がいるだろうか」

 ちょうど戦後、北海道のテレビ会社がスタートに当って「こんなものに広告出す物好きがいるかな」と心配したようなものだったらしいが、そのうちに無声映画につきものの弁士が今日のテレビのスターみたいにもてはやされる時代になったり、小樽の新しい手宮座とか星川座、互楽亭、旭亭、福寿亭などの小屋が繁昌したり。

女流弁士第一号の秋月歌子

 トーキー・ターキー

 トーキーといった声の出る映画が出現して小樽へどんどん入って来たのは昭和六年だが、弁士たちの失業はむざんというほかはない。徳川無声のように声優のようなかたちで成功したのはごく稀だった。

 小樽出身の芸能人も結構多かった。いまも現役のターキーそれに昭和五年にカラフトからソ連へ行ってしまった岡田嘉子(本人は父が小樽の新聞社にいたので七ヵ月ほどいったことがあるといっている)。もう忘れられたか、ハヤリ歌「涙の渡り鳥」の歌手というより後半オペラに転じた小林千代子、小説「女給小夜子」のモデルで売った‶小樽豆選女学校〟出の小夜、さいきんはまだいるが、戦争末期にそのほとんどが休館命じられて映画館の娯楽を失った小樽青年たちは遠い戦場で、 

 「ターキー?やりたいやつだったなァ」

と草むすかばねの前夜、天狗山の映画をしのんだことだろう。だいたいエムデンのМがいけない。

当時の活動写真映写機

写真は北海道映画史から

 

~HISTORY PLAZA㉕

小樽市史軟解

奥田二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

~2018.12.22~