大金持あとかたなし~㉗

2020年04月29日

 アズキ将軍

 小樽で大尽となり、道内一といわれる豪邸を建てたのは山本久右エ門、犬上慶五郎、佐藤松太郎、金子元三郎、高橋直治、藤山要吉、野口誠一郎、井尻、丸ヨ石橋、渡辺兵四郎らであろう。儲けたら国に帰るつもりだった富山商人の寿原一門の家は大したことはなかった。前出の井尻静蔵はサカナとりからはじまって海運に走り、藤山、佐藤、板谷、犬上らも同業になる。小樽区長をやった金子はニシンとりから代議士、北門新報を発行して当時第一流の評論家中江兆民を主筆にむかえ、二人で豪遊をきわめたのは歴史にのこっている。金を湯水のようにつかったことでは日本一だろう。

 当時の人口は六万そこそこだった。

野口、石橋は醸造のほうで財を成し、小樽港の入港船は年間、五千隻にもおよんだ。

 藤山は北陸勢のまっ只中に入ってきた数少ない秋田衆で、道南福山のニシンとりの小僧から回船屋の養子になってのしていった。早くに名を消したが、小樽海運の元祖みたいな存在で、同じニシンとりから海運に回った増毛の麻里英三と双璧をなした。

 麻里のむすこ悌三は戦後道議として名高い。 

 ある日、住吉神社の落ち葉をふんでいたら、奉納の小さな石柱が朽ちている。名が読めた。麻里英三とある。ああ、大昔のニシンとりも小樽から石狩湾の海の色をみてたんだなと感慨しきり。渡辺は網元にして小樽区長になった山田吉兵衛の支配人から山田と同じコースに入る。山田はそもそも印刷を得意としていたから、渡辺も新聞を出している。

 金豪で異色は、和歌山県新宮から小樽にきて鉄道の枕木などで儲けた坂口茂次郎で、銭函に工場をにつくって腰をすえ、外国にインチ材を輸出した草分けだ。むろん、合板輸出は小樽港。渡辺と藤山が二人でカラフト進出を志して視察したのはあまり知られていない。またカラフトでなくサハリンといった時だ。兵四郎八十七歳、辞世の句は「うかうかと世をすごしけり八十の春」

 シイクマ演説

 つぎは山本久右エ門だが、養子厚三が民政党の代議士になって大臣一歩手前までいったのは書いた。養父の久右エ門も新潟―福山―小樽の‶定期コース〟をいっている。最初、福山で呉服商をやり、しだいにニシン漁に手をのばし、天売・焼尻・礼文三島の網元で儲ける。

 ニシンのつぎは養子とりで、長野県飯田市出身の平沢厚三をあととりにした。

 厚三は東京高商卒の当時とびきりのインテリで、ニシンから倉庫にまわった家業を守る一方で、代議士にかつぎ出される。

 厚三はその名のとおり光頭で口ヒゲを生やし、演壇に立つものの格調が高すぎて小樽の大衆諸君にはピンとこない。それをおぎなって余りあったのが、前座をつとめた小樽新聞東京支社論説委員の椎熊三郎と、のちに小樽新聞の社長になった二代目の地崎宇三郎だった。

 椎熊三郎は舌先三寸で戦後の衆院副議長にまでなった男で、演説は実に大衆向けだった。

 当時、政友と民政はライバル保守党といわれたが、民政はいまの社会党だと思えばいい。椎熊の演説も官権攻撃一本ヤリだった。

 山本は平沢家の出で、弟の亮造が家を継いだ。小樽倉庫の社長や道体協の会長をやった円満人物で、その弟が広谷姓で共産党兄弟の父になる。

 土地で防衛

 財バツから共産党の子が出るのは小樽ではめずらしくなかった。小樽商人自体が甚だ進歩的だから小樽が発展したわけだが、自分で働いたこともない坊ちゃんたちが学問で得た新しい知識を、父たち資本家の反動としてはたらかせたのは不思議に当らないが、ブタ箱につっこまれて特高の逆さ吊りになったら、すぐマイッタだ。

 山本は政治家としても商業会議所会頭としてよく働いたが、蕩尽しなかったのは妹背牛や鵡川に土地を買っていたからだ。土地買いは寿原や板谷もそうだったが、小樽商人の賢明さと金持ぶりを物語っている。

 山本は戦後パージで椎熊をあとつぎとして死んだ。山本とちがって椎熊は助平で、山下春江代議士やら何やら女とみれば手を出した。もっとも英雄ゴーケツそれでないとイケマセン。

 山本や寿原、板谷は事業や人をのこしたが高橋直治、犬上、藤山、金子など小樽を風ビした大金持の後継が何をどうしたとかの話をきいたことがない。その豪邸と共に夏草と風に埋もれ、噂されているにすぎない。

 小樽の伝説はヤマほどある。

 明治初期の人、伊藤辰造はクリーニング屋という新商売をやっているうちにニシンで儲けた堤敬次郎のカネに目をつけ、これに店を売った。悪銭身につかずで伊藤がコジキになる寸前、堤の世話で住吉座という芝居小屋を建てて大当り、伊藤は消防の隊長にもなった。

 ところが火事で小屋が焼けてしまう。

人力ポンプで水をかけながら「どこの家だ。よく燃えるな。まさか俺んとこではないだろうな。」

 

豊平川≪松浦武四郎著‶西蝦夷日誌〟所収≫

クシュンコタン(カラフト)

~HISTORY PLAZA㉗

小樽市史軟解

奥田二郎

(月刊ラブおたる39号~68号連載)より

 

2019年のスタートはやはり、海から

ニシンが産卵する藻の状態を見に

行きたかったのですが

もう少し波が穏やかな日に来ます

~2019.1.4~