明治・大正の小樽をみる(その5)~公園づくり 86

2020年06月26日

A 明治41年ころの小樽公園

B 小樽公園グランドでの連合運動会。稲女の「織姫」と共に有名であった量徳女子小のマスゲーム「美しき天然」(大正8年)

C 手宮公園より港内を展望する(明治末期)

 現在、小樽には総合公園として23.5ヘクタールの広さをもつ小樽公園と、19.8ヘクタールの手宮公園がある。

 また、街区公園(児童公園)が64ヶ所、近隣公園は11ヶ所、地区公園が6ヶ所、緑地1ヶ所あり、総合公園と合計すると84ヶ所、90.57ヘクタールの都市公園緑地がある。

 そのほか花園グリーンロード、オタモイ青少年広場など8ヶ所(20.76ヘクタール)の緑地・広場がある。(平成8年3月現在)

 今月は、この中から総合公園としての小樽公園と手宮公園について触れてみたい。

 

 『小樽公園は花園公園とも呼ばれ市の中央にあり、グランドを囲んで東山、西山、嵐山の3丘陵が港の見える丘を形成する。 

 ここはもと東山と呼ばれた森谷栄作(港町で旅館を経営していた)の無償払下地であったが開墾不行届の理由で取上げ、改めて明治26年の冬、共有遊園地として払下げたのに始まる。

 その後、公園の造成、運動場の整備などに10余年を要した—』

 『手宮公園もまた、この区制時代に形づくられた。その起りは区制になる明治32年の3月、小樽市庁長山田有斌が総代人にはかって、その年の5月国有未開地の下付を出願し、道庁から翌33年5月、共同有園地として無償付与されたことに始まる―』

(小樽市史による)

 今日、この手宮公園のグランドは第2種公認の陸上競技場があり、明治時代手宮同志会が寄付した樹木の中には北限といわれる栗林もある。

 明治時代には、この小樽で建築物をはじめいろいろなものが造られたが、小樽公園と手宮公園造成の発想には感心する。

 平成のいま、長橋なえぼ公園が営林署小樽苗穂跡に総事業費3億2千万円をかけて来春完成する。森の自然を生かしての整備、生態観察を重視したこの公園づくりは将来、大きく評価されるであろう。

小樽市史軟解 4

岩坂桂二

HISTORY PLAZA 86

月刊ラブおたる より