昭和初期における小樽のある筆線 7

2019年04月04日

 昭和のはじめ頃、市内都通り(セントラルタウン)のある喫茶店の二階に毎日のように、ゴッホの○○くん、セザンヌの○○くんと呼びあう絵を描く若い人たちが集まっていた。

 それは楽しい仲間たちであった。いろいろ勉強しているうちに裸婦デッサンをしたくなったが、すぐにモデルをというわけにはいかなかった。

 今田敬一著の「北海道美術史」に「札幌で裸婦デッサンの職業モデルが、はじめて出たのは大正11年である」と記してある。

 その中の一人は、後に上京し藤島武二のモデルになった人もいるくらい、芸術家からみるといいモデルがいたらしい。。

 今田さんは、大正時代より小樽の絵画グループの一員でもあったので、小樽で札幌のモデルを使うことも可能であったと思う。

 若い仲間たちが集まった頃、当時のモデル代はどのくらいだったのだろう。

 社会思想社発行の「明治大正昭和世相史」の中にある昭和4年頃の資料をみると、モデルの着衣は3時間で1円、裸体は1円50銭とある。バスガールの日給が96銭、女工さんの日給が50~70銭と書いてある。

 週刊朝日編の「値段の明治大正昭和風俗史」では、その頃のコーヒーが10銭(小樽では5~10銭)。おしるこが15銭、映画館の入場料が40銭と記してある。

 裸婦のモデル代は、これらと比較してみると髙かったものなのか、安かったものなのか。1日だけでなく何日も使う場合もあるとすれば…など考えたり、当時のモデルが少なかったから呼ぶのが大変だったのだろうか。

 この喫茶店に集まった仲間たちは、モデルに小樽の豆選び工場の女工さんをお願いした。

 「あんたたち、どうせお金なんてないんでしょう。いいわよ脱いであげる。お金はいらないよ。」

 「すみません。どうぞよろしく。」

 それから半世紀が過ぎた。そして今この人たちは75歳以上になっている。

 「あの頃は助かりましたよ。お礼はおしるこ一杯でしたからね」と笑って話す。

 当時、ほかの画家からも、モデルに豆選び工場の女工さんをお願いしたということを聞いたことがあるが、女工さんたちも小樽の美術向上の協力者であったわけである。

 都通りのある喫茶店とは、当時この店を経営していた国松登さんの「夢」という店である。

 この喫茶店は、入口の上にベートーベンの石こう(石膏)を飾った内外共に雰囲気のある店であった。

 ここに集まった楽しい絵の仲間たちのその名は「裡童社」。小樽が暖の核となった団体である。 現在、手稲に住む版画家の須田三代治さんもその一人であるが、昭和50年から3回にわたりACTという美述会報に「裡童社のころ」という記録を書いてメンバーを紹介している。

 それによると、第1回裏童社展は昭和5年4月に本市の今井呉服店で開催している。出品者は、三浦鮮治、石野宜三、国松登、野口吉三郎、〇〇〇、須田三代治、高橋光夫、桂田静枝、福弘三郎、横川清次、加戸利雄、佐藤達三郎、野村保幸。

 同年10月に2回展を開催。小竹義夫、高畑八百蔵、田辺澪子が加わる。翌年の3回展から更に、小島真佐吉、市村武、大森滋、田窪通泰。

 4回展から、末武(加藤)静枝、松本哲男。5回展から、鈴木儀一、柏洋三、西倉勇太郎、馬場常二(順不同・敬称略)が加わっている。

 人生という時の流れの中で、いま平成の時代を迎えたが、今も健在で創造活動を続けている仲間の画家がいることは喜ばしい。

 また、惜しくも追憶の人となった仲間たちもいるが、その残された色彩は風化しないであろう。

 この楽しき仲間たち、それは一つの青春の歌であった。そして一面において、哀愁にかげる昭和初期の日本の詩人たちと共有する、叙情詩圏の画家たちでもあったとおもうのである。

 

〈カットの説明〉

画家、国松登さんが経営していた当時の喫茶店「夢」の広告コピーと画家、三浦鮮治さんのデッサン

 

~NEW HISTORY PLAZA ⑦

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる

平成元年5月~3年10月号連載より