新成人のみなさんが生まれた年 9

2019年03月14日

■成人に寄せて■

 今年、成人式を迎える昭和44年4月から45年3月までに生まれた人に心からお祝いを申し上げたい。

 この20年間に、みなさんはそれぞれの思い出があるだろう。野球拳でタレントが服を脱いでいく「コント55号」のテレビや、ドリフの「8時だよ全員集合」の番組が始まった年にみなさんは生まれた。

 「昭和44年といえば、東大の安田講堂はじめ、大学紛争が激化した年であった。国立Ⅰ期校の大学入試会場に機動隊が出動したり、本道においても札幌、帯広、小樽でも革マル派学生による紛争が起こった。

 この年は「断絶」「ニャロメ」だとか、テレビのコマーシャルで「オー・モウレツ」のことばが流行したり、反戦フォークソングが歌われた。

 また、同年にはアポロ11号の月面着陸が宇宙中継され、カラーテレビが店頭になくなるほど売れた年でもあった。

 一面において、サンローランが発表したシースルールックと共に、パンタロンや、マキシュコートが流行する華やかさもあった。

 流行歌の中でも、なぜか小学校1年生の皆川おさむの歌った「黒ネコのタンゴ」や、憂いのある表情で歌ったカルメンマキの「時には母のない子のように」がヒットした。

 そして年度最後の日、45年3月31日には、日航機「よど号」が赤軍派学生によってハイジャックされ、アポロの月面着陸のときと同じく、すべての人がテレビの前にクギづけされたのである。

 小樽市は昭和44年、駅前再開発の大幅な機構改革をして、11月には都市計画審議会が開発プランを可決し、そのスタートを切った。

 経済界においては、市内企業、商社の札幌進出が目立った年でもあった。

 夏には、市民生協スーパーが若松を皮切りに、花園、緑店をオープンし、店舗の大型化を迎えた。

 また、小樽の消費者協会や、生活学校のお母さんたちは自然食運動を展開したり、発がん物質を含むという人工甘味料のチクロ情報のキャッチなど活発な動きをみせ、時代の先どりを示した。

 エコノミックアニマルということばが生まれたこの年に、市民は騒音を含め公害対策も万台化した。

 市民運動というものは、すぐ実現するものと、不能なものや、長い時間をかけて実っていくものなど多様であるが、根づよく続けていくことの大切さを、この年に教えてくれた気がする。

 文化面においては、小樽美術協会が創立展を産業会館で開催。この年の道展で本市の堀忠夫さんが、最高の協会賞、豊田満さん(今は札幌在住)が新人賞を受賞するなど気をはいた。

 また、道庁赤レンガ庁舎と共に、本市の旧日本郵船株式会社小樽支店の建造物が重要な文化財に指定されるなど意義のある年であった。残念だったのは、本市が誇る伊藤整がこの年に亡くなったことである。

 映画界においては、大島渚監督が小樽ロケで「少年」という映画をつくったが、小樽青年会議所がこれをバックアップしたり、本市で同監督による座談会などを開催した。

 同年に上映された五社英雄監督の「御用金」のストーリーは本道に関係ないが、カラスの大群シーンは、小樽のゴミ捨場付近で撮影されたものである。

 当時の映画館は、東宝、日活、東映、電気館、花園劇場、中央劇場、富士館、コトセ、手宮劇場の9館と、ミュージックホールというストリップ劇場があった。

 そして時勢として、映画館のいくつかは、スーパーや、ボーリング場、飲食店街に変っていった。

 昭和40年には、19万6千台の本市人口も以後は減少の傾向をみせたり、人口が郊外に移るいわゆるドーナツ型現象をみせるなど、新しいマチづくりに何をなすべきかが大きく問われた時代でもあった。 

 いま、小樽市は「活性化」ということばが叫ばれているが、この当時は「斜陽化返上」がその合言葉であった。

 あれから20年が過ぎた。更にあと10年で21世紀を迎えるが、そのみなさんこそ時代を支える大きなエネルギーだ。

 それぞれが、この20年間の自分史を大事に残し、これからも自分で納得する人生を送ってほしい。

〈写真説明〉

新成人が生まれた年度の小樽駅前の街並みスナップ(昭和45年1月撮影)

 

~NEW HISTORY  PLAZA ⑨

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号より

昭和45年から

50年後の小樽駅前