小樽の底力をみせた昭和12年(その1) 10

2019年03月17日

日中戦争が始まったのは昭和12年7月で、同年11月には日独伊(日本・ドイツ・イタリア)の防共協定が調印された年であった。

その年に小樽市は、規模や内容においてスケールの大きな展覧会を開催し大成功を収めたのである。

 港と小樽公園一帯を会場として7月7日から8月25日までの50日間、その名も北海道大博覧会という豪華絵巻のイベントであった。

 協賛会会長は市長の板谷宮吉氏、副会長には商工会議所より松川嘉太郎氏、市議会議長の河原直孝氏、市助役の土居通治氏等があたり、総裁には北海道庁官の石黒英彦氏を迎えた。

 産業会館、拓殖館、近代科学館、国防館、海洋館ほか20以上の立派な特設館が並んだが、今回は、このうち演芸館だけをとりあげてみたい。

 この演芸館は、従来各地の博物館のものとは異なり、舞台装置や照明など施設として完全なもので、当時の一流劇場と比べても劣らないものであったという。 

 協賛会は、東京の松竹本社はじめ関係先と事前から熱心に交渉を重ねて、これらの技術をとりいれると共に、ステージ出演者も一流が来樽することを確約して展開されたのである。

 コケラ落しは、舞踏の家元若柳柳吉蔵はじめ、地元芸妓連中の豪華けんらんなものでだった。

 続いて、映画でおなじみの阪東勝太郎一行。曾我廼家祐十郎一座。島田嘉七、横尾泥海男、新橋喜代丸、そのほか馬場文子など新進のチャンピオンショー。

 「涙の渡り鳥」などでヒットを飛ばした、本市出身の小林千代子(戦後は小林伸江としてオペラ歌手に)や、ターキーとして人気の水の江滝子も錦を飾った。

 また、松旭斎は初代と二代目の両天勝の登場。アクロバットの岡本八重子。「酒は涙かため息か」で全国を湧かせた藤山一郎はじめ、小唄の市丸、勝太郎、音丸などがこの演芸館で実演している。この一端だけをみても、当時の小樽の底力がうかがわれるし、他の特設館の充実も一連として理解できると思う。

 協賛会に対する寄付も予想以上に集まったことや、陸軍省、海軍省など軍の支援もあったりして、この博覧会は全国的なものとなったのである。

 当時の歌謡曲では、露営の歌はじめ軍歌歌謡が続いたが、流転、旅が作動中、別れのブルース、人生の並木路、裏町人生などがよく歌われたが、これらは今でもカラオケでしみじみ歌っているのをみかけることがある。

 映画は、限りなき前身、真実一路、浅草の灯、人情紙風船、淑女は何を忘れたか、大阪の陣、若い人、蒼眠、風の中の子供…などの名作が上映された時代でもあった。

 中でも、アメリカの子役スターだったシャーリーテンプルちゃんの人気はたいしたものだった。あのテンプルちゃんスマイルは、今でも知っている人が多くいることであろう。

 日本映画も、この人気に対抗して「悦ちゃん」をつくったがその比ではなかった。

 演芸館を中心に、当時の様子を思い出してみたが、北日本屈指の都市小樽の熱気と底力が、この展覧会の成功と発展を導いたのである。

A北海道大博覧会の演芸館(小樽公園内)

Bそのプログラムの一部と広告コピー

C当時、全国を沸せたテンプルちゃん

~NEW HISTORY PLAZA 10

小樽市史軟解 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より