小樽の底力をみせた昭和12年 その2 11

2019年03月19日

 前号では、北海道大博覧会を中心に昭和12年の小樽をふり返ってみたが、今回はかくどをあえて、その年にみせた底力を推察してみたい。

 人口は約15万6千人。港は第1埠頭も竣工し、その繁栄は大きかった。

 工業地帯における産業の年産も躍進めざましいものがあった。主な産物としては、製缶、ゴム製品、酒類、製紙、製材、製粉などが盛んで、その設備能力も優れていた。 これら製品の鉄道輸送は、小樽駅、南小樽、小樽築港、手宮、色内、浜小樽の6駅がフル回転した。船舶による輸送も、各種定期航路が国内外共に活発だった。

 貿易総量も多く、20数ヶ国との輸出入があった。

 金融面においても本市は北日本随一で、日本銀行、横浜正金銀行はじめ、本州銀行の一流支店。北海道、北海道拓殖銀行の地元銀行を加えると18行に及んでいる。

 また、手形交換高も全国6大都市に次ぐ地位を占めていた。

 教育面をみると、学校はこの年に市立商業学校(夜間)が開校されたが、小学校19、中学2、商業学校3、水産学校1、高等女学校4、高等商業学校1、青年学校13、盲わ学校Ⅰ、その他8校で総数が52校であった。昭和10年の総数46校に比べても増加している。

 当時の教育団体としては、青年団体16、女子青年団12、少年団3、婦人団体28が地域づくりにかつどうした。

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 その頃の宵の街の様子を料亭だけに例にとって眺めてみたい。

 明治、大正期には、芸妓さんも600人を有していたが、昭和に入るとその数は少なくなった。それでも昭和12年には200人を超えている。

 小樽が全道に誇った料亭の電燈はこの年にも生きていた。料理や食器も一流。その建物も立派で、いま残っている建物を見るとその隆盛がうかがわれると思う。

 紙上の関係でその一部だけを紹介する。

▷中島屋▷阪内亭▷海陽亭▷芸陽亭▷嬉し野▷美合▷高田屋▷甲子▷福井屋▷千登勢▷松嶋屋▷新松島▷新中島▷宮城野▷三ッ葉▷会津屋▷政美代▷初音▷仙台屋▷なにわ▷千代本▷くれ竹▷とき安▷餝喜▷一寸屋▷雅叙園……そのほか、▷お幸茶屋▷魚松▷大関▷米久▷大和屋……。これに小料理屋を併わせると200軒以上になる。

 料亭厳寒の出入りはタクシーを利用して人目をさけた人も大勢いたであろう。当時のタクシー代は市内80銭、市外1円。小型タクシーは市内50銭、市外60銭。小樽市街自動車株式会社経営の市内バス料金は10銭であった。

 

 ○ ひっくらと日本髪いふ振袖の

   ひとのお酌は酒もとろける

 

 ○ 見返れば柳緑の川岸に

   赤い灯が浮くほろ酔いの足

 これは、その頃に並木凡平(明治24年~昭和16年)が小樽で歌ったものである。

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 不幸なことに、この年に日中戦争が始まった。

 やがて吹き抜ける風の中で、街には「国民精神総動員」「一汁一菜」「享楽廃止」という標語ポスターが貼られていくのであった。

 

A昭和12年の小樽市街と港。

B当時の色内町銀行街(色内1丁目)で、北海道銀行(現中央バス本社)、第一銀行(現紳装協組)、三菱銀行(現中央バス第2ビル)、北海道拓殖銀行(現小樽ホテル)が、この辺にあった。

心の和音で賑わったその頃の料亭における宴会スナップ(海陽亭)。

~NEW HISTORY PLAZA ⑪

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる

平成元年5月~3年10月号連載より