大正11年小樽に第1艦隊入港 12

2020年06月24日

 今年の1月、私は北海道新聞の「朝の食卓」に「1枚の写真から」と題し、大正時代に第1艦隊が小樽港に入港したときのことを書いた。

 「その写真を見たい」「私も滝川から泊りがけで見に行った」「軍艦名を知りたい」など全道の方々から手紙をいただいた。今回はその様子について別な角度から述べてみたい。

 小樽港には、明治41年に比叡、同42年に香取、日進、春日、生駒、石見、敷島の6隻と別に大和と松江が入港。大正元年に大和、、同9年に伊勢、扶桑、日向、安芸、薩摩、香取、榛名、比叡、筑摩、平戸、多摩の諸艦が入港している。 

 そして大正11年9月10日に第1艦隊の44隻がシベリア・沿海州出動後に小樽に入港しその偉観をみせたのである。「朝の食卓」に記したのは、この大正11年のこのことである。

 当時の小樽新聞などを中心としてこれをみると、主な軍艦は旗艦の長門をはじめ、最新鋭の陸奥。第2艦隊の金剛、比叡、霧島。第3戦隊の木曾、大井、玖摩。第1水雷隊の天龍。第15、25、26駆逐隊。第1潜水隊の矢せき、航空母艦の若宮…などでこれらは港内外に停泊したが、それは圧巻だったという。

 長門には竹下中将、陸奥―黒瀬大佐、混合―斉藤中将、木曾―百竹中将、天龍―大谷少将、潜水隊―今泉少将など将校600名、下士官以下2万人以上という大規模な艦隊であった。

 入港の夜は艦隊歓迎の花火が打ち上げられ、全市のちょうちん行列を行なった。水天宮境内より三つのコースに午後7時より9時まで市中行進をした。

 『当夜の水天宮は満山、火の山と化し万才の声、天地をゆるがして盛観を呈した』と新聞は報じている。

 また、当時の新聞見出しを紹介すると

 『北日本海に大演習を行ひ 海軍思想の普及に♢堂々海を圧し来る第一艦隊 けふ小樽港内外の偉観』『威風四辺を拂ふ小樽港頭の浮城♢厳として横たはる艦隊四十四隻』・・・などが大きな活字で書かれている。

 歓迎委員の訪艦は、服部内務部長、宮尾長官夫人、市長代理飯田助役、藤山、渡辺両元老、山本代議士、森樽商工会議所会頭はじめ警察署長、赤十字社、愛国婦人会、新聞社関係のメンバーである。

 司令の山下中将の机上には洋画がぎっちり積まれていたという。竹下将軍は海外歴もあり文化人でもあったらしい。私はその絵画がどんな作品であったかに関心をもつが、今は知るよしもない。

 停泊の期間中にいろいろな歓迎行事も行なわれた。小樽公園で交歓相撲大会、軍楽隊の演奏会、港では写真展や野外映画会を開催した。

 小樽公園での歓迎園遊会は、主客を含めて1千500名が集まり、また、別に将官の歓迎招待会を料理店「幾代」で開いている。

 そして、この艦隊の見学者(当時は拝観者といった)は実に6万人というからおどろきである。

 市内はもちろん、団体としては旭川、札幌、芦別、岩見沢、幾春別、栗沢、後志の町村などの児童生徒、学生。消防団はじめ全道の各種団体などで小樽は賑ったのである。

 見学者のため、協同艀業者組合は水上警察前でキップを発売したが、盛況で、売り場意外にヤミ業者が出たくらい人気があった。この期間中の1日に大雨が降り大混乱する一幕もあったそうだ。

 港の埋立地に設けられた休けい所は満員で、具合が悪くなった人のために救急所も並べられた。

 べんとう屋さん。貸しメガネ屋さん(双眼鏡と思われる)、昆布茶屋さんは大繁昌であったという。

 以上が艦隊入港の一端であるが、昭和に入り、同9年にも大規模な連合艦隊が小樽港に入港している。

 そして、日中戦争、太平洋戦争に突入して、その結果、日本海軍は崩れ去っていく運命をたどっていったのである。

 歴史家のテーマは、昔から歴史における波乱にあったとするならば、私たちは明治、大正、昭和の波乱をいま一度考えてみたいと思う。

 そんな時に、いま目に浮かぶのは、カンカン帽に着物姿のお父さん、赤ちゃんをオンブしたネンネコ姿のお母さんとゲタの音。着物と洋服の数が半々と思われる子供たちが無心に振る日の丸の小旗と軍艦旗……第1艦隊をみつめる人々の姿である。

A水天宮神社境内より艦隊をみつめる人々。左の立て看板には、貸しメガネ5分5銭、中央の人の背中には10分間8銭と書いた広告がみられる。

手宮公園より撮影したもの

多くの歓迎を受けて、次の寄港地大湊に向かう艦隊

 

~HISTORY PLAZA ⑫

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる

平成元年5月~3年10月号連載より