『小樽と献納機』 28

2019年05月02日

 天は二つの日を照らす

 しのぐは何ぞ 星条旗

 大詔下る 時まさに

 この一戦とつき進む

 疾風万里太平洋

 めざすは ハワイ真珠湾

 

 この歌は昭和16年12月に海軍軍楽隊が作曲した「ハワイ大海戦」である。作詞は意外にも叙情詩人といわれた北原白秋であり、亡くなる前年につくったものである。

 昭和16年12月、日本が真珠湾を攻撃し、太平洋戦争に突入してから今年は50年目になる。

 この戦争は昭和20年8月に、わが国が敗れ終結したが、毎年8月になると事実はこうであったとか、戦後はまだ終わっていないというような記事、写真や映像が目を引く。

 今回は、そのうち民間団体が軍に飛行機を寄贈するという、いわゆる献納機について小樽に関係するものを述べてみたい。

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 献納機は太平洋戦争以前にもあった。昭和9年、報国第57号(北海道号)の命名式が小樽で開催されている。

 全国献納機第1号は日本毛織会社が寄贈したニッケ号であるが、この57番目の北海道号は本道の第1号であろう。

 命名式は5月5日、会場は現在の北一ガラス1・2・3号館の港側の広場(堺町8)で行なわれた。

 この報国号は水上用の偵察機で、命名式の主催は海軍省であった。式場には海軍のほか在郷軍人、青年団、小・中学校の児童生徒でうずまったが、戦闘機に近い性能をもった当時の最新鋭機だったこともあって、近くで写真を撮ることは禁止された。

 命名式後は飛行してその雄姿を披露し、更に全道各地を訪問飛行した。

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 昭和12年、日中戦争が勃発し、そして太平洋戦争へと拡大されていった。昭和18年、小樽の献納機のうち小樽愛国号について、小樽市史は次のように記してある。

 『昭和18年11月11日、皇后陛下は日婦総裁東久邇宮妃殿下に「大日本婦人会が結成以来、帝国未曽有の難局に処して克く銃後の備えに万全を期し、その実績見るものあると聞くは深く満足に思う。今や時局いよいよ重大なる秋、婦人の責務益々重さを加う。総裁以下一同力を一億婦人報国の氏名達成に邁進せんことを望む」。これによって小樽婦人会はお言葉に副い奉るべき決意を新たにした。

 小樽愛国号-この月、小樽愛国号献納金17万円が達成された。……』

 数年前ある新聞に、献納機の全部ではないが、献納したマチの上空を飛行訪問後、名称をぬり替えて使われたものもあると報道されたこともある。

 小樽の献納機(写真)はどんな運命をたどったのだろうか。撃墜されたのか。もし、、戦後に残ったとしても昭和20年10月、丘珠飛行場に集められた日本軍の26機が、アメリカ軍需器材処理部隊の火えん放射器によって全機焼かれてしまったので、その中にあったのかも知れない。

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 丘にはためく あの日の丸を

 仰ぎながめる われらの瞳

 いつか溢れる 感謝の涙

 萌て来る来る 心の炎

 われらみんな 力の限り

 勝利の日まで 勝利の日まで

 

 サトウハチロー作詞、古賀政男作曲の「勝利の日まで」というこの歌は、曲もきれいで、さいごの軍国歌謡として広く歌われた。しかし、歌の願いがかなうことなく日本は無条件降伏した。

 終戦の昭和20年8月15日、この日の小樽は夏の強い太陽がギラつく暑い日であった。

 

写真にみる小樽の献納機

戦闘機 愛国第610号 陸軍省

機体の横に(愛婦小樽)と記してある。

戦闘機 愛国2759号 陸軍省

機体の横に(北海道小樽)と記してある。

艦上戦闘機 報国第2184号 海軍省

両翼に(北海道小樽号)と記してある。

~HISTORY PLAZA 28

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より