~昭和10年~小樽の防空演習(その1) 29

2019年04月30日

 日中戦争開戦2年前の昭和10年、旭川第7師団管下の札幌、小樽、旭川、室蘭の4市と、後志はじめ7支庁の広範囲にわたって大規模な防空演習が実施された。

 これは、ある国と国交断絶したという設定で、同年7月24日から27日まで実践さながらに実施されたものである。演習の前には、飛行機を使い周知のためのビラ50万枚が散布されたという。

 軍民一致して、本道空襲の敵機の攻防戦に参加した人は、札幌、小樽が7000人、室蘭3500人、旭川1500人をはじめ、支庁を含めると約10万人に及んだのである。

 今回は、このうち小樽に関係したものを述べてみたい。

 「〇月〇日、敵の飛行機(機数不明)は、日本海上空を南下して小樽に前進中なり」という想定。

 7月23日正午、北海道防衛司令官から重大指令が出る。小樽市防護団本部は土居、菅両副長(板谷団長は不在)、米山中佐指揮官は次のような命令を発したもである。

 一、敵飛行機は小樽方面に南進中にして、本日午後10時ころ上空に達する距離にある。

 一、市防護団は所定計画にもとづき防護を実施せんとす。

 一、各分団長は、午後8時30分までにおのおの所定の準備を完了。警戒警報、交通整理の任務にある各班を所定の位置に配置すべし。

 これによって、空襲に備える燈火管制が実施され、街の灯は消えて暗やみとなった。

 当時の新聞はこれを大きく報道したが、その隅に「暗夜街で拾った話」という見出しで、『喜んだのはアベック、暗やみで肩に手をかけて、ひそやかな語らい』『ダンナさん、どうですか、と客引きの闇の女性も多く出た』と報じている。

 翌日、敵飛行機は日中に3回来襲。爆弾、しょうい弾、ガス弾を投下。これに対し、煙幕によって建物を守ったり、避難誘導などを実施した。

 一方、手宮公園などの陣地に配置した高射砲や他に配置された機関銃は一斉に火を噴き反撃した。

 しかし、敵機は北海製罐や手宮診療所、北海ホテル、花園町越の湯前、加えて、入船交番前、若竹の機関庫などの爆撃を続け、更に、港に碇泊中の北日本汽船の能登丸と天草丸、松谷商店の越後丸などが攻撃を受けた。

 以上は事実ではなく、敵機の来襲を想定して行なわれた演習である。しかし、現実においては日本は戦争に向かって動き出していたのである。

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 昭和10年の防空演習のとき設定された毒ガスとは何であったのか。それは、①窒息性ガス(ホスゲン)、②クシャミ性ガス(塩化砒業ジフエニール、アダムサイト)、③催涙性ガス(塩化アセトフェノーン、臭化ベンジール、塩化ピクリン)、④麋燗性ガス(イペリット、ルイサイト)の4種類のものだった。

 このうち、①のガスは呼吸器を冒し、窒息死させるもの。②は持久性のもので皮膚や目を冒し、更に呼吸を冒す症状と共に砒業中毒を起させるものという。

 これらは、個体、微粒子、液体、気体として使われた。設定とはいえ、当時かなり現実性のあったものと思われる。 防毒マスクについては、今年の湾岸戦争の折り、テレビ、新聞、ラジオ、雑誌などを通して世界中に報道された。

 毒ガスは過去のものではなく、今も使用される可能性があることを知って戦慄を覚える。いかなる理由があろうとも、毒ガスは絶体に使用してはならないものの一つだ。

(次号に続く)

昭和10年7月、北海タイムス社発行の「防空」(B4版20頁)という情報誌

防空演習中、防毒マスクをつけて救護活動をする小樽愛国婦人会の人たち

防空演習の新聞見出し

 

~HISTORY PLAZA 29

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成5年11月~7年9月号連載より