~昭和10年~『小樽の防空演習』(その2) 30

2019年05月05日

 前号では、昭和10年7月24日から4日間にわたって行なわれた防空演習について述べたが、今回はその当時の防護団組織を一つの記録おして紹介したい。

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  当時の小樽防護団員は全市で約7000人であった。

 分団は市内の7つの地域と水上分団(次頁資料による)で構成された。

 私の手元には、色内、堺、東雲、山田、南浜町地域の第5分団が、昭和10年7月に発行した防護の配置要図がある。

 おそらく他の分団も同じだと思うが、きめの細かい印刷におどろきを感じる。

 第5分団本部ー堺小学校

 警護班    (事務所ほか3屯所)

 消防班    (事務所ほか5屯所)

 防毒班    (事務所ほか2屯所)

 救護班    (事務所ほか2屯所)

 警報班    (事務所ほか3屯所)

 交通班    (事務所ほか2屯所)

 燈火管制班  (事務所ほか9屯所)

 工作班    (事務所ほか1屯所)

 配給班    (事務所ほか1屯所)

 運輸班    (事務所ほか3屯所)

 医療班    (事務所ほか1屯所ほか

         望月病院、愛生病院)

 避難管理班  (公設避難所として、湯殿山、

         小樽倶楽部、堺町取引所、堺小。

         局地避難所として商工会議所。

         一時避難所として水天宮と

         堺町岩壁

 以上、その所在場所の地図や各所の連絡電話番号、各分団本部の電話などがわかりやすく印刷され、各家庭に配られたのである。

 戦争を想定してつくられたこの組織は防空演習が終わると共に消えていったものではない。

 この年の9月には小樽港二連合艦隊(赤城、山城、榛名、高雄、鳥海、阿武隈、伊号63などの空母や戦艦、巡洋艦、潜水艦)が入港したのは何を意味するのか。

 そして翌昭和11年には、天皇をお迎えして陸軍の大演習が北海道で実施されている。(この年にも連合艦隊が小樽港に入港している)。

 更に現実として昭和12年に日中戦争、昭和16年に太平洋戦争が開始されたのである。

 一つの想定のもとにつくられた組織は、愛国婦人会や日本赤十字社、青年団、学校の児童・生徒の動員のもとに拡大強化されていったのである。

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 戦時中の組織を、平和な今の時代にふり返る必要はないとしても、例えば今年の雲仙岳噴火における情報伝達の正確さと対応が万全であったのか……、人命にかかわることだけに守るということは無縁ではないと思う。

 ただ、組織が強制によるものか、自主的なものかによって問題は異なる。

 昭和10年の防空演習のころ、小樽の映画館では、大河内伝次郎の「丹下左膳」、霧立のぼるの「明けいく空」、岡田嘉子の「もの言わぬ姉」川崎弘子、岡田早苗の「春よ心あらば」などが上映されていた。

 この年は、カフェーから独立して、喫茶店が増加し、東京だけでも1万5000の店があったというが、小樽の店も例外ではなかった。

 俳優歌手第1号の高田浩吉の唄った「大江戸出世小唄」ほか、「二人は若い」「上海リル」「赤城の子守歌」「無情の夢」「船頭可愛や」「緑の地平線」などが歌われていた。

 翌昭和11年には、男の子はセーラー服、女の子にマフラーが流行したが、これも昭和10年の軍事色が生んだ影響だと思うのは間違いだろうか。

 あれから時は流れて幾星霜……。いつの時代にも光と影があった。

 

小樽市防護団第5分団が昭和10年に印刷した配置要図の一分(市内の分団地図)

防護団警報班の伝達活動

昭和10年小樽入港の連合艦隊「赤城」の有志(小樽海軍普及会発行)

 

~HISTORY PLAZA 30

小樽市史軟解 第1巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成元年5月~3年10月号連載より