明治42年の小樽を回顧する 57

2019年05月30日

 謹賀新年。早いもので私がこのHISTORY・PLAZAを担当してから57回を迎えた。

 その間、いろいろな方からご支援をいただき新年にあたり改めて厚くお礼を申し上げたい。

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 次頁A・Bの年賀ハガキは明治42年その年のものである。日清、日露戦争のあとも軍事色が色濃く見られる。2枚共に色刷りでそのバランスもいい。日清、日露戦争のときには、戦友、軍艦マーチ、婦人従軍歌(日赤)などの軍歌ができたが、明治42年ころは益々広がりをみせて歌われた。

 正月の新聞広告の一例をみると、『謹賀新年 明治39年発布セラリシ歯科医師会法に基キ今般北海道歯科医師会成立致候ニ於テハ小樽区開業歯科医師ハ左記四名ニ之有候 明治四十二年。長谷川光多郎(妙見町)小堀乾三郎(稲穂町)菊池鉄二郎(山田町)乗田作夫(色内町)』

 『謹賀新年 株式会社小樽米穀取引所仲買人(開業順) 稲積豊二郎 近藤忠太郎 尾倉伊作 宮島駒次郎 大島宗太郎。 佐々木佐次郎、鈴木長五郎』という年賀文もあるが、当時の人の名前からいろいろなことを知ることもできる。(この年に小樽では雑穀商業同業組合が結成されている。

 なお、札幌区と小樽区の年賀郵便数を前年の明治41年でみると、札幌区の173978通に対し小樽区扱いは303782通となっており、小樽の時勢が伺われる。

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 新年における小樽の雑誌売り上げをみると、さすが商業中心のマチだけあって、「実業の日本」がトップを占め、「実業の世界」「商業界」「実業倶楽部」も売れている。

 婦人雑誌では、実業日本社の「婦人の世界」が一番多く売れ次いで「女学世界」「婦人倶楽部」と続いている。

 子供向けの雑誌は、「少年世界」「少女世界」などがあった。

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 この年には、北海道水産共進会が小樽で開催されて多くの人を呼んだ。また、現在、市の有形文化財指定の五百羅漢像が宗円寺と共に、道南の福島町から小樽へ移転している。

 港には、第1艦隊旗艦の香取ほか、日進、春日、生駒、石見、敷島。更に期日を変えて、大和、松江の軍艦が入港して賑わいをみせた。山崎鑛蔵が「小樽区外七郡案内」という貴重な郷土史を発刊したのもこの年である。

 青年画家の長谷川昇、工藤三郎、上野山清貢らがエルム画会を結成し、札幌で毎年展覧会を開催したが、長谷川、工藤は共に小樽の小学校に通い、小樽洋画壇にかがやかしい業績を残している。

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 日本の生糸輸出量が、中国を超えて世界第1位になったのも明治42年である。両国国技館が完成したのもこの年であった。

 ちまたには、ローレライ、野ばらなど清白な歌と平行して、ハイカラソングなど文明開化の歌も流行した世相であった。

 森永がチョコレートを発売したのもこの年。新宿に中村屋が開店してロシアパンが有名になったのをはじめ、文明道のビリケンも流行した年である。

 小樽では、中川七造が玉水舎という工場・店舗でサイダーの製造、販売をしたのも明治42年であった。

A

B

明治42年の年賀ハガキで道内に郵送されたもの。消印も明治42・1・1となっている。

C その当時の絵ハガキで、現在の重要文化財・旧日本郵船(株)小樽支店を中心とした堂々たる店舗群―説明には小樽区手宮町郵船会社通りと印刷されている。

~HISTORY PLAZA 57

小樽市史軟解 第3巻 岩坂桂二

平成5年11月~7年9月号連載より