小樽画壇の鼓動 裡童社の仲間 78

2019年12月30日

 今年の市立小樽美術館では、小樽画壇の創生期を偲ぶ2つの美術展が開催されて市民の注目を浴びた。

 1つは美術館が主催した「太地社・裡童社の画家たち」展であり、もう1つは、一原有徳が中心となって実行委員会を組織して開いた裡童社の須田三代治遺作展であった。

 太地社の名付は、当時、東京美術学校在学中の大月源二であり、裡童社の名付は横川清次だったという。

 本号では、この中の須田三代治さを中心とした裡童社について記述してみたい。

 第1回裡童社の美術展は1930年(昭和5年)の〇井呉服店(デパート)で開催した。三浦鮮治、石野宣三、野口吉三郎、〇〇〇の先輩による作品と共に、須田三代治高橋光夫、桂田(石橋)静枝、福弘三郎、横川清次、加戸利雄、佐藤達三郎、国松登、野村保幸等による作品50点が展示された。

 その後、裡童社展を開催するたびに新会員が加わった。小竹義夫、高畑八百蔵、田辺澪子、市村武、大森滋、小島眞佐吉、田窪通泰、末武(加藤)清江、松本哲夫、柏洋二、西倉勇太郎、鈴木儀一、馬場常二である。

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 当時の小樽画壇について、裡童社の須田三代治は、札幌時計台ギャラリー発行のACТ誌にその様子を記しているが、メンバーを浜の手、山ノ手、中央に分類して展開していることに興味を引くものがある。

 港町、堺町、有幌などの海岸線を浜の手として、三浦鮮治、兼平英示、渋谷正雄。高商(商大)、庁商(商業)、樽中(潮陵)の学校が集中した地域を山ノ手と呼んで、工藤三郎、竹部武一、中村善策、〇〇〇、竹田信夫を挙げている。

 長橋、稲穂、花園、量徳方面を中央部とし、小島眞佐吉、野村保幸、国松登、小竹義夫、田窪通泰、横川清次、鈴木茂、富樫正雄、渡辺祐一郎、金丸直衛、角野(金子)誠治、小林剛、阿部達郎、平沢貞章、角江重一、須田三代治が名を連ねている。 

 中央部もなかなかやるじゃないか、浜の手、山ノ手も頑張ろうと、その風土に根をおろしながら絵筆をふるった愛すべき人間群像によって小樽画壇は隆盛を加えて行った。

 「太地社・裡童社の画家たち」展のリーフレットには『当時の貧しい生活のすべてを絵に打ち込んで彼らの盛んな活動は、彼らが得意とした小樽の風景の独特の構図や色調とあいまって「小樽派」の名を高めた』と記し、更に『大正から昭和初期にかけての小樽の美術活動は、北海道美術の歴史そのものであったといえる』と結んでいる。

 私も、この展覧会と同時に開催された「須田三代治遺作展」を観て、その中に底光りするものを感じたのである。

 「須田三代治遺作展」の実行委員は、一原有徳、石井平二郎、大橋護、大畠裕、小川清、国松明日香、崎野雄一郎、嶋田観、新覚吉郎、高橋好子、千葉豪、千葉七郎、徳吉和男、中村訓敬、野田弘之、堀忠夫、山元泰夫、森ヒロコ、渡会純介と私の計20名であった。

 須田三代治を知らない世代の美術家も実行委員に加わり、先達の画家の展覧会を支援したことは、小樽画壇の流れとつながりの上で、大きな糧を残したと思っている。

A 裡童社の須田三代治作品 1935年(昭和10年)の「小樽港」油彩8F

B 新谷支庁はじめ、連日多くの人が来館した「須田三代治遺作展」会場

C 裡童社の仲間だった国松登も亡くなったが、息子の明日香も実行委員として協力した(左)右は須田三代治夫人で後方は一原実行委員長と私(遺作展会場にて)

~HISTORY PLAZA 78

小樽市史軟解 4 岩坂桂二

月刊ラブおたる より