第1回小樽市民大学講座がスタートしたころ 34

2019年11月30日

 前号では、新成人の生まれた昭和46年の小樽について述べたが、今回はそれから2年後の昭和48年と49年の始めころを市民大学講座の開講を中心にふり返ってみたい。

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 小樽の市民大学講座は今年で19回を迎えた。

 第1回をスタートしたのは昭和49年1月で、その実行委員会の発足は昭和48年であった。

 昭和48年といえば、オイル・ショックの年であったことを忘れられない。この年は、百恵、淳子、昌子の「花の中3トリオ」登場で明るい一面もあったが、10月に第4次中東戦争の勃発で世の中は一変した。

 アラブ産油国がとった石油戦略によって日本の経済、社会は大打撃をうけたのである。原油の大幅値上げと供給量の減によるオイル・ショックである。(英語はオイル・クライシスと呼んだ)

 政府は、国民安定緊急措置法と石油需給適正化法を成立させた。石油にとどまらず、セメント、鉄骨、ガラスなどの建築用材はじめ、すべてのモノが不足し物価の高騰によるインフレが起きた。これによって高度成長政策はいっぺんに消えてしまった。

 消費物価の高騰をみても、北海道は全国平均を上回ったのである。

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 特に、トイレットペーパー・パニックというと、あのころを思い出す人も多いであろう。

 モノが不足するとみるや、買いだめ運動が起こることを戦時中に何回も経験している主婦は、「それ…」とばかりにトイレットペーパーを売っている店に押しかけ、品不足に拍車をかけた。

 男達は、麦酒やウイスキーを入手するのに苦心したものである。

 12月、小樽市は市物資需給緊急対策本部(本部長は市長)を設置し、事務局を商工課に置き分室を消費者センターとした。また、各部の職員も動員され、スケールを持って店に出向き、トイレットペーパーの直径を計って、その長さの正確さを調べたりしたものだった。

 このような経済不安の中で、書店の経済関係の本は売上げが急上昇した。

 そんな背景があって、小樽に市民大学を開設しようという声が道新小樽支社を中心に一挙に盛り上がったのである。 

 地元にある商科大学の学究エネルギーを、もっと市民と結びつけたいということと、インフレ、石油危機による社会不安に対処するためには、継続的な講座を開催しようというものであった。

 テーマは「現代を生きる」で、今もこのテーマは続いているが、当時は、「現代に生きる」か「現代を生きる」にするかについても論議したものであった。

 実行委員会は、道新、商大、青年会議所、ロータリークラブ、文団協、連合pТAに市も加わった強力な組織であった。

 当時、私はその事務局(市教委)を担当したメンバーの一員である。

 そして昭和49年1月、第1回小樽市民大学講座は熱気にあふれ、市民の注目の中で開催された。会場は拓銀小樽支店の階上ホールであった。 小樽の銀行協会もこの講座に協力し、拓銀も無料で会場を提供してくれた。しかし、オイル・ショックによるモノ不足の最中のため、暖房用灯油とトイレットペーパーは現物持ちこみが条件であった。ところが、期間中これらを用意することは大変なことであった。

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 昭和49年元旦、2・3日はおだやかな天候であった。しかし、初詣の人出は前年に比べて減少した。これはマイ・カーによる人が減ったためである。

 ガソリンの供給制限によって、正月休みに車でスキー場に行くこともできず、家にとどまったことで、逆に市内の映画館は前年の24%増を記録した。

 政府は指定物資の標準価格を設定したが解決には至らず、石油、電力の供給を20%削減し、マチのネオンも消えてしまった時代である。

 年末、年始にかけて、私たちは市民大学講座期間中の燃料オイルとトイレットペーパーの確保にかけずり廻った。

 だから、私は市民大学講座という言葉を耳にするたびに思い起こされるのは、開講当時の社会情勢である。

 

~HISTORY PLAZA 34

小樽市史軟解 第2巻 岩坂桂二

月刊ラブおたる 平成3年11月~5年10月号連載より