名妓・糸八 その1

2020年12月31日

春や昔「名妓糸八」紅情史(うきよばなし)

―生ひ立ちと其頃の港小樽―

-明治四十年頃の中村糸八-

『はしがき』北海道が生んだ名妓、中村屋糸八の名は餘りにも有名であり、且つは古い。明治元年の暮『鮭』の石狩辨天町に呱呱の聲をあげ、同十一年の歳の瀬迫るとき故あつて、當時黄金の雨が降ると云はれた小樽の、金曇町(こんたんまち)第一の大籬丸丘樓の娘分となつて花柳界に身を投じ、攀柳折花の巷に浮き世の種々相も夢の間に五十餘年を送り迎へ、撥を取執つては右に人無類、『三筋の糸八』の名も今に謳はれはてゐる。

 明けて古稀を越ゆること二歳!悠々自適の餘生を樂しんでゐるが、未だ三筋の糸に、若かりし頃の美人の俤と藝の冴えを残してゐる。今その昔の自叙傳的な物語を聽く。

 

『金曇町』の名は『ヲタルナイ』小樽を知らぬ秋田越後の荒くれ漁夫や船頭達でも、知らぬ者は無い程『金曇町』の名は知れ渡つてゐた。西蝦夷奥地へ女の渡航禁止が解かれた安政二年から、十餘年を經た慶応初年には『ヲタルナイ』は村並となり(當時の戸數四百六十餘戸、人口二千三百餘人)絃歌のさざめきこそ少なかつたが、早くも花柳界の素地は出來てゐた。濱小屋それで、勝納河畔から若竹町の海邊一帯にポツリポツリと建てられてゐた。西蝦夷奥地へ女の渡航禁止のが解かれた安政二年から、十餘年を經た慶應初年には『ヲタルナイ』は村並となり(當時の戸數四百六十餘戸、人口二千三百餘人)弦歌のざわめきこそ少なかつたが、早くも花柳界の素地は出來てゐた。濱小屋がそれで、勝納河畔から若竹町の海邊一帯にポツリポツリと建てられてゐた。小屋とは名ばかり、衾(しとね)の中から月が見えると云つた葦簀張りの全くの掘立小屋だつた。春になると娼婦が馬の背に蒲團を積んで抱主に伴はれて、小屋を根城に、板子一枚下を地獄の船頭、船子を相手に一ト夜の媚を賣つてゐた。此の『濱小屋』の邊りに自然に市街が開け、漁舟や廻船は勝納川尻に、苫をかけた。商港小樽が今日の繁榮も、今から七十年前は、渡り鳥的な濱小屋があつた事を想へば、實に遠い話である。卽ち後年の金曇町情史も茲に濫觴してゐる。

 

 一世の名妓として、藝達者と俠氣を市人士に謳はれた中村屋糸八も、此の金曇町から世に出た一人である。

 

 小樽に金曇町時代を謳歌されたのは、明治十年頃からのこと、最も殷盛を極めたのは、鐵道の開通した明治十四年前後で、一ト夜萬兩の黄金の雨が降ると云はれ、紅燈の巷を中心とした舊小樽の賑ひは筆舌に盡し難いものであつた。

 

糸八は本名トシ子!中村萬左衛門を父とし、明治元年十二月師走の雪積む鮭の名所は石狩の辨天町(現辨天神社筋向ひ)に産ぶ聲をあげた。父は微禄乍ら曾つて松前藩の禄を食み、安政の末年、福山の千萬長者船問屋山形屋八十八の『枡取』隣町の顔役として派手な暮しをしてゐたが、慶應二年山形屋の急な歿落にあつて、忽ち身の振り方に窮し、一家をあげて奥地と云はれた石狩町の『丸立』を頼つて、福山から遙る々”引越した。時は十月、石狩は既に袷では寒さが身に沁むころであつた。

 當時の石狩は、福山、箱館、江差と並び稱され、石狩御用所があり(取調役定詰松前藩樋口榮助)石狩灣一帯の運上屋の總元締があつて、石狩川の兩河岸は、繪の樣な千石積の大和船が春から秋へ、七八十艘もあつて、出船入舟の賑ひであつた。

 辨天町は遊女屋街!丸立、南部屋、丸越山八、丸正、五郎兵衛、鯉川楼などの大籬が軒をつらね、明治維新の風雲をよそに、晝夜の別なく、繪歌の明け暮れと云ふ盛んさ。然も秋は鮭の本場所!鮭とる漁舟の賑ひは、廓の繁昌とまつて、蝦夷随一と云はれてゐた。

 萬左衛門一家が草鞋を脱いだ丸立は、廓でも一、二の大店。女將の『さき』は福山生れで、萬左衛門とは十數年來の親類交際であつたので、萬事は丸立の世話になつた。

 丸立はその後明治になつてから、小樽の金曇町へ移轉し廓第一の大籬と謳れた。だが殘つたつ萬左衛門は、總べての仕事が手違ひとなつて食ふや食はず、器用だつた萬左衛門が、茶の湯、活花を、家内(糸八の母)が廓の女達へ唄や踊りを教へて、僅かに糊々の資に充ててゐたと云ふ惨な有樣であつた。

 糸八のトシ子は生れ乍らに斯うして、花街の空氣に育つ運命にあつたと云ふのも、奇しき因縁とも云へる。明治十一年の暮も慌しい頃、妹一人、弟三人の姉となつたトシ子は、吾が家の苦境を輕くする爲め、丸立の娘分として、金曇町の本店へ引取られた。

…。

 

『楽しみな、一年が始まります。よいお年を!』