長年の疑問

2024年02月11日

 汽船は定期船その他入港せる汽船もありたれども運賃の関係もあり問屋筋の都合もありてか海産物などは絶えて汽船積みにしなかったのであるが、この頃より移住民が各地より続々来るのでそれを小樽へ揚陸せしめ小樽より石狩原野その他へ送るため汽船はおもに移民を積んできて帰りには石炭でも積むのが多かったように思うくらいであった。編者も三国港より汽船で渡道したが小型汽船で定員三百人位の船に千人位乗せ、荷物同様に扱ったもので人積船かなどと嘲ていたのであるがその後二、三年間は移民宣伝の結果でもあったか室蘭へも小樽へも多数の移民が上陸し中に船酔いのため死去したものもあったが兎に角入港船ごときに移民多きため手宮駅(今の貨物駅)の如きは構内に蓆囲いの臨時便所は七、八か所をあつらえるという始末で移民は台車に乗せて山方面に送るという惨めな状態であった。

 構内は石炭ばかりで濵名氏、鈴木氏が探鉱会社の専属艀でまことに盛んであって編者の渡道した前年、荷役競争の結果、両艀人夫の大喧嘩があり血の雨を降らしたこともありというがこれほど石炭の本場港であったのである。

 しかれども港内としては防波堤があるわけでもなし一朝時化となったときは沖に係留せる船舶は錨が引ける船体は動揺する荷役は中止という始末で今の濱町あたりへの道路へ波が打ちあがり通行できなかったことも時々あったが、時には大和船や汽船が打ち上げられて破壊せらるることは珍しからぬことであった。今でこそ立派なる港湾になったがその頃は港などと称するも恥ずるような思いがしたのであった。政府も小樽の発達を見て港湾修築の要を認め明治三十年より四十一年まで十か年余も係わって第一防波堤ができ、少しく港湾らしくなったのである。その間政府は岩見沢以東へ鉄道を布設せんため、レール供給者たる横浜第一館ジャデマゼソン会社よりレール満載にして絶えず入港しその艀陸揚げは鈴木市次郎氏これを受負い大いに利するところありという。いまの浅田飴の煉瓦の建物は鈴木氏が明治三十二年頃に建築し以来大いに巾をきかした遺物なり。その頃の倉庫はといわば南濱町、北濱町に現存せる位しかなかったので右近倉庫、ヤマ七倉庫及び倉庫会社などをみて移住民などはその大規模に驚いたかたちであった。回漕店は塩田、西谷、キトの三店は特に目立ったものでその他六、七軒あったようねれども出たり引込みたり移動がちであったとおもう。

 それが星移り年変りて防波堤をみるに至るや汽船も漸々入港するようになりしが、その反面には大和船はいつとはなしに減するようになった。明治三十八年函樽鉄道が開通しまた岩見沢以東、おもなる原産地へは鉄道布設せられしため山方面より雑穀類ぞくぞく集まり日に月に発展の速度を速めたりしが、明治四十一年以来第二防波堤が着手されこれが竣工とともに港湾輪郭の完成を告げ、したがって船舶の輻輳をも来し北日本の中枢たる集散地一大港湾となり今日に至ったのである。

小樽四十年誌 付手宮発達記 p39~41

 

~函館の大学に入り、初めて札幌へ行きました、汽車に乗って、函館本線で。その当時は、長万部を過ぎると、木々の中を通るばかり。

「熊が出るんじゃないのかな。」本気で思っていました。

小樽に着いて、漸く「街だ。」

札幌に着いて、「大都会だ。」

「北海道の開拓に来た人たちは、どうやって函館に到着後、稚内や根室や帯広へ、そして全道各地へ行ったんだろう?当時だったら、徒歩か馬で?熊や狼がいた頃なのに。」と。

でも、小樽の歴史を調べていると、

「北海道中に人を、開拓者をはこんでいたのは船だったんですね。」

という事がわかりました。

そして、その中心地が小樽だったんです。

小樽から船で全道各地、北方領土へ向かったんです。

によると

明治36年頃の航路

~2019.11.26