中村伸郎と昭和の劇作家たち~その2

2020年07月31日

 中村 恨みましたね。あの時パリに行かせてくれてたら、絵描きになっておったかもしれません。だから、六十過ぎてから「文学座」を脱退して、しばらく芝居を忘れたいと思って、女房と二人でパリに行ってセーヌべりをに座って水彩画描いて、ほんとに泣きましたね。何だ俺は、今描いているけど、違うんだよ。若き日に絵描きでここまで来たかったんだっていう……ほんと、泣けちゃいましたよ。

 

 「文学座」時代までの中村伸郎は新劇界のヴェテランの一人として一定の評価を受けてはいたものの、同僚である杉村春子のように傑出した才能とうたわれるほどではなかった。岸田國士の理論に共鳴する形で俳優になったものの、自分にはもしかしたら俳優は向いていないのかもしれないという疑いは、彼の心から消えてはいなかったのだろう。自分は俳優ではなく、画家になるべきだったのだ。今は俳優を演じているだけなのだ。壁にぶつかるたびに、心の中でそう呟いていたのではないだろうか。よしんば世間が中村を俳優として高く評価していようと、心の中にこの呟きがある限る、彼のアイデンティティは振り子のように揺らぎ続けただろう。自分は俳優以外の何ものでもないという確信を得る以外に、この揺らぎを止めることは出来ない。だからこそ中村伸郎は、ほとんど求道的とも思えるほどにも、新劇俳優としての技術を磨くことに執念をもやしたのだ。俳優を演じるのではなく、俳優になる為に。若かりし日に中途で放り出した絵筆への思いがかえって彼に、俳優を放り出させなかったのだ。

 末子でありつつ長子であり、画家になるはずだったのに俳優になってしまった中村伸郎。彼の生き方の中には、自由に選びとれる豊かさと、意固地に己を律し続ける一徹さが共存している。大正デモクラシーから昭和モダニズムにかけての芸術運動の盛んな時期に、裕福な家に生まれた感受性の豊かな少年は、「あるべき己れ」うぃ求めて新劇運動に身を投じた。そんな、彼の俳優としての「資質」には、常に彼の「あるべき己れ」が見えかくれする。それは、時には生活力がないにもかかわらず放浪癖のある男であったり、大会社の重役であったり、それらの役柄を演じる時、中村ははまった。もしも画家の道を選んでいたら、同時代の若い画家たちのようにパリに行き、常識的な枠をこえて生きる奔放であやういボヘミアンになっていたかもしれない。あるいは芸術を断念して養父の仕事を継いでいたら、間違いなく彼は大企業の重役、社長になっていただろう。そして小津安二郎は、中村の持つ生活環境がはぐくんだ都会的感受性(大正から昭和初期にかけての東京が育んだと言ってもよい)と共に、彼のそのような「資質」を、小津の作品世界の構図にはめ込んだのである。結局中村はボヘミアンにはならなかった。重役にもならなかった。けれど、幸せな結婚をし、養父の愛情に支えられながら俳優になった。そしてそんな彼はスクリーンの中で‶もしも〟の己れを演じたと言えるのかもしれない。

 中村がインタヴューの中でしばしばくちにしたのが「美」という言葉である。実業家にはならないと決心した時、彼が支えにしたのは「美」であった。金や豊かな生活や、社会的地位といった価値ではなく、「美」という主観的で、それゆえに手に入れにくい価値。中村の生涯は、己れが「美」と感じ得るものを、己れの手でつくり出すことに賭けられたのだ。そして、そのような中村の生き方自体が、「美」という価値に殉ずるという意味での「美学」によって貫かれていたのである。「美学」をダンディズムとよびかえるならば、生きる形としての己れの身振りを、律し続けた中村の姿がより明確に浮かび上がってくる。

 だが、中村のダンディズムが、舞台上にはっきりとした姿をあらわすようになるのは、まだ少し先のことである。「文学座」時代の彼は未だ、揺らぎの中にいた。そして小津との出会いが、中村に目指すべき縁起への示唆を与え、新たな展望を生み出す契機となったのである。

(3)自問自答の演技態

 中村伸郎は、小津安二郎のつくり出す映像世界に、彼の理想とする「美」の形を見たのである。だからこそ……。

~俳優の領分ー中村伸郎と昭和の劇作家たち

2009年12月19日ー第一刷発行

著者   如月小春

発行所  新宿書房

より