海運王 板谷宮吉

2020年04月08日

 地口に〈近江泥棒伊勢乞食〉という言葉がある。商人気質を単的に表現しているが、御本尊の滋賀県人は〈近江殿子伊勢小正直〉が誤り伝えられたものだと弁解する。

 つまり江商には、金豪になって殿様さながらの富裕の座に就いた目はしの利く者が多い、というのが真意だと云いたいのだ

 どうやらその誤伝にはやっかみが底流しているようだが、〈越後衆しょっぱいガン〉となるとそのものズバリで、塩辛いだけが取得の副産物だけかっこんで、ひたすら倹約立行する彼等の気風を鮮やかに表現している

 函館の相馬財閥のあるじ哲平といえば、一介の人夫から身を起した大分限者なのだが、この越後人たるや来客には拳大の氷砂糖しか出さない。

 客は詮方なしにそれをなめ廻すだけである。ところが哲平はそれを再度別な来客に出すというのだから、まさに西鶴綴るところの〈日本永代蔵〉の群像を地でゆく恐るべきケチぶり。これを一応‶神話〟だとしても、裸一貫からスタートして万代不易の蓄財の覇者たらんとするには、このたぐいのケチも常識としなければならない。

 小樽商工界に種をまいたのを松前系とするとそれに肥料を振りまいたのは加賀衆、そして稔りを刈り取ったのが越後衆や越中衆ということになるのだが、その越後衆の出世頭で稀代の甲斐性男板谷宮吉にも、人を見送る時の停車場入場料二銭まで店の交際費にまわしたという‶伝説〟がある。これは物持ちになってからの話。とするとペイペイ時代のケチ振りたるや予想以上のものであると云えるだろう

 

 さて宮吉。安政四年一月越後国刈羽郡宮川村生れ。父善右衛門は世板藩の御用商人だったが、三男の彼が誕生するとすぐ世を去った。

 燕雀なんぞ鴻鵠の志知らんやで北海道、いやエゾが島に渡り、郷土の成功者先代金子元三郎が開いていた松前の海産店に丁稚奉公した。この時僅か十四才。余程気迫漲溢の少年だったらしい。

 元三郎の紹介状を懐中に忍ばせて、まだアイヌ小屋が散在していた小樽港の山の上町工藤という海産問屋の暖簾をくぐったのは五年後、明治八年であった。

 この頃は小樽最古の量徳小学校もなく寺子屋が四書五経を教えている時代で、ランプも登場していない。勝納川には和船がのどかにもやっていた。小樽はようやく北見、天塩方面の漁業の根拠地として発展の階梯の第一歩を踏み出していた。

 この店でも刻苦勉励同郷の西本善次の娘ゼン(大正九年歿)を女房に向えて腰をすえたのは明治十二年。その三年後には現在の港郵便局の向い側に、ささやかな荒物屋を開いて独立の旗をかかげた。

 十八年の入舟町からの大火。二十年の永井町からの大火に見舞われた宮吉も、後生大事の貯金や後の小豆将軍、同じ越後衆の高橋直治の侠気などで再起の翼をひろげている。そしてニシン粕百石(四千貫)八百円から千円といった相場で海産物の買占めをやったり、その頃ブームの精米所も開いた。稲穂町に二百坪の工場を借りて先代福山甚三郎と共同出資の醤油醸造も始めている。

 しかし彼の本領は海運にある

 明治二十六年に五百㌧の英国船を買って、彼らしく魁益丸と名付けて新潟諸港と小樽間の貨物船の定期航路を開始した。

 続く日清戦争の勃発で、魁益丸が御用船になったのがツキの発端になる。

 二十九年には北浜、有幌町に石造倉庫を建てて海産物保管の倉庫業開店。二十五年、英国船を買って故郷の山をしのぶよすがの米山丸と命名、翌年にはこれもまた郷山の名を採って弥彦丸とした。そして日露戦争が始まった。開戦と同時にウラジオストック艦隊が、小樽行の米積みの奈古浦丸を撃沈している。 

 小樽の在米は五、六千俵程度という有様で、そのため米価を筆頭にあらゆる物価が暴騰して銀行取付の大騒ぎ。区民のなかで札幌に逃げるといった手合も出る一幕があった。

 しかし米山丸と弥彦丸はお国に召されて、明治軍談の極付になった‶軍神〟広瀬中佐指揮の旅順口開塞に参加して‶名誉の戦死〟を遂げた。

 そして宮吉が得た報酬は、胸間に輝く勲六等瑞宝章と巨額の補償料だったのである。

 三十九年十一月十三日。ポーツマス条約にもとづく領有の樺太国境線決定の会談は日本郵船小樽支店で行なわれたが、その時の宮吉の得意たるや推して知るべしだ。この戦争で小樽区民の義損金の大手は、金澤友二郎と遠藤又兵衛が夫々一万円。木村円吉が六千円で金子元三郎が五千円。しかし二隻の船を犠牲にした宮吉には札束が舞いこんできたのだ。春秋の筆法を借りると戦争が幸運の女神になった訳である。

 こうして運の緒をシッカと掴んだ宮吉は、有頂天になって大尽遊びをするたぐいの成り上りではなかった。以然として睡眠四時間の‶暁天ニ星イタダク〟鉄則を守り強固な地盤を固めていった。四十五年板谷商船創立。南津郵船という匿名組合を設けて阪神、ハワイ、航路。大正二年には大連に板谷洋行、樺太に樺太銀行を出してその版図は海外にまで及んでいる。

 当時の所有船は七隻二万二千ハ百㌧。海運の同業者藤山要吉、山本久右衛門、犬上慶五郎などの大物を凌ぎ、利潤率も日本の業界第四位になった。

 小樽は北海道随一の政争沸騰点最高の土地で、とかくフライパンの上のアヒル達が犇めいている。政界のうるさ方がこの宮吉をほうっておく訳がない。政友会のボス寺田省帰達が躍起となってかつぎ出しを策したが、火中に栗をひろう彼ではなかった。せいぜい区会議員程度で歩を停め、ソロバンを後生大事にまもった。そして大正十三年五月十三日、小田原の別邸でその光彩陸離の一生を終えたのである。

 二代目宮吉こと真吉は明治十八年五月生れ。十二歳で来樽して日中を経て早大商科を出たのが四十二年。東京で金貸しをやってその金利で悠々と暮らしていたが大正七年に父が中風で倒れてから跡目を継いだ。姉婿順助という大老と、御意見番の支配人柴野仁吉郎がお傍らについて、父が孜々として築いた材を雲散霧消するような若様にはしなかった。

 しかしその頃になるとシブチンの板谷家も気前のいいところを見せて、長橋中学校建立の時は現金十万円と土地一万坪併せて二十五万円を寄付している。母校早大にも十万円。インテリだけに美術品が好きで、時価一万円もする泰西名画などを買い入れた。

 しかし流石に政治という名の魔物の魅力には抗しきれず、昭和二年には犬上の後をうけて、政友民政両党の推薦で悠々多額納税貴族院議員に当選している。昭和二年と言えば未曽有の大恐慌の時だったが、彼の経営する銀行は風にそよがず大蔵省から模範銀行に指定される有様。またこの年現在、王子製紙子会社の北海水力電気の持ち株は三千百十五万円で王子に次ぐ大株主。彼の財力の強さは計り知れない。

 一体板谷財閥の資産はどの位になるのか。講談倶楽部の昭和九年新月号の〈全国金満家大番付〉(八年十月現在)では前頭十一前目の五千万円。小樽ではもちろんトップで二番目の藤山要吉五百万円の十倍である。

 また戦後では、明治二十五年の富裕税対象財産ベストテンで第七位に伊藤豊次(伊藤組二代目)が入っているが(一億五千万円)、二代目の宮吉と伊藤豊次は、さしづめ蓄財マラソンの第二ランナー金メダル組双璧といいたい。

宮吉は昭和八年から十二年までの市長を勤めている。給料などは問題ではないというわけで無給の名誉市長になった。与党の昭和会は市会正副議長、そして商工会議所正副会頭などの要所を握っていたからさしもの波瀾もなかった。太平洋戦争では九隻八万㌧の船を沈めたが水陸双面の板谷体制、まさに不抜のものであった。

 話は遡るが彼は永山、美瑛、雨竜に大農場を経営していた。昭和初期の凶作の時には小作米の全免、八割減など‶進歩的〟な面をみせたり、昭和三年には日高平取の千六百町歩を自作農に移したりしている。

 これをみると。小林多喜二の<不在地主の悪玉モデルにまでされて小作人大争議の渦中にまきこまれた磯野進(時の小樽商工会議所会頭)とは対蹠的なようだが、大正十二年一月から二ヵ月にわたって小作人争議が起きたことがあった。

 これにこりたので前記の強慾ならざるところをみせたのだろうか。要するに農場にしがみつく必要もなかった大金豪宮吉だったのだ。戦後はそごうデパートの社長などをして昭和三十七年七十八才で歿。三代目は真満が襲名した。

 順助は二代目三代目の早稲田に対する慶応出。板谷農場を実際に経営して大日本農政会の副会長もやった。勇払電燈、沙流電気、洞爺湖電鉄、渡島海岸鉄道の経営など道南での足跡がくっきりと鮮やかで、胆振縦貫鉄道敷設は彼の功績である。

 選挙地盤も道南で、四区から立起度々当選。小樽区域から立ったのは僅か一回で、戦後自由党公認で参議院選挙に出て当選これが小樽立起の二度目である。

 昭和二十五年初代の北海道開発審議会会長。スケールの大きい太っ腹の人物で、二代目宮吉との折合も円満だった由。

~小樽豪商列伝(1)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より