小豆将軍 高橋直治

2020年04月11日

 むかし成金という言葉があった。‶吹けば飛ぶような〟将棋の歩でも、敵陣に突入すれば一挙にして金に成る。…これが出所である。大正三年の世界大戦でタナボタ式の漁夫の利を占めた日本に、驚天動地の成金ブームが媚笑をうかべて到来した。そのなかで船、鉄、銅などが儲け頭になるが、山頂から直径二尺のパイプを一里麓の別邸に引き、山の冷風を座敷に送りこんだ者もいるかと思うと、鯉を焼くのには炭火ではうまい味が出ないからと称して、百円札の束をもやしたとか、朝鮮まで飛んで虎狩りに興じたとか狂気の限りをつくした俄か分限者が続出したのである。北海道に、北海道らしい大粒小粒の豆成金が輩出したのもこの頃で、その旗頭こそジョウヤマキ小豆将軍こと高橋直治である。

 

 直治は安政三年一月越後の刈羽郡石地村で生まれた。板谷宮吉その大番頭柴野仁吉郎、金子元三郎。そして伊藤亀太郎や現在の北海道の酒造主小林米三郎などの生地は近い。

 幼少の時父母を喪って酒倉で働き‶あれも子樽拾い〟の貧しい生いたちだったが、十七才になるまで祖母から三度の勘当を受けている位、不〇放縦の行動派だったらしい。随分酒を飲んで憂きことを忘れようとしたがよねという女を識って一念発起結婚してから身持ちが改まったそして再生の活路を北海道にむけた。

 なけなしの金を工面して恋女房と共に北海道に渡ったのは明治八年。山の上町の廻船商に二人で丁稚奉公したが、独立してジョウヤマキの家号の海陸産物雑貨商を開いたのは十一年である。

 その店は同郷の宮吉の隣家。後日宮吉の処世の姿勢とは全く異次元の彼が、宮吉と兄弟分のチギリを結んだのは興味深いがその秘密も案外こんなところにあるのかもしれない。

 ジョウヤマキの家号については次の話がある。現在のヤマキ佐野清の先代は当時有幌町で漁場向け物資を手広く扱い羽振りがかなりよかった。負けん気の直治はその上を越す商人になっちゃる、の意気込みで威勢いい家号を号したというのである。

 四才下の弟喜蔵を呼んで一致協力、十余年後には米穀。海産物の委託販売。味噌醤油醸造。精米…やれることはなんでも着手した。

 二十一年には、商業機関の共同利益を計るため小樽商会設立の発起人になってその取締役についたが、これが商業会議所の前身である。当時の小樽港は、二十二年に特別輸出港の指定を受け、二十五年十月には室蘭、夕張線の開通を見て進取的な樽商が石狩平野にまで商圏をひろげて札商を圧倒している。二十六年に札幌の空家は三百軒、札幌開拓以来三度目の不況が到来したが、その原因の主因は樽商の活歩によるものだといわれる。

 直治は回漕業も始め小樽廻船業問屋役員。また、二十七年に市価の標準設定のためにつくった米穀株式外五品取引所の理事長になった。 

 二十四年の初夏、横浜の貿易商増田屋を訪問した時紹介された一英国人からヒントを得て、小樽の発展性の度合いからいけば必ず高台に家が軒を並べると得意の商略をはたらかせ、片端から土地を買って土地派という小樽有力派の胎頭の先鞭をつけている。かと思うと印刷所を設けて北海道の雑穀相場や自店の雑穀の売買値をのせた高橋商報という業界紙も発行したから現代の‶ラーメンからミサイルまで〟の丸紅飯田、伊藤忠ハダシの八面六腑ぶりである。

 こうして三十二年には商業会議所副会頭、三十三年小樽海陸産物組合長。しかし彼が決定打をうち出して器量商才を余すところなく発揮したのは小豆だった。

 政治家としての直治の閲歴は後にゆずるとして、代議士として上京した時は日露の風雲急を告ぐる頃。彼は小豆の需要を見込んで安値の小豆を買いまくった。時に三十五年の秋。

 北海道の小豆の殆ど全部である八万俵は倉庫に山積みになったが、暮から翌春にかけて独占相場を吊りあげてこれを高価で売りさばいて、儲けた金は実に十六万円。直治はこの‶赤いダイヤ〟を‶黄色いダイヤ〟に転化した。すなわちニシン漁場に投じたところ大漁でアッという間もなく数の子やニシン粕の二十万円の利益が転がりこんできたから、併せて三十六万円の儲けになったのである。 

 大正三年六月第一次世界大戦の発生。前年の北海道は降霜と豪風雨で大凶作だったが三年から好況に転じ、四年の後半期には三年に一俵二、三円だった豆類が、二、三倍の高値になった直治は低迷を続けていた小豆を買付けて虎視たんたん機会をねらっていたが、精選の小豆包みを食糧不足に悩む英国に送ったところ、直接二千㌧の発注が舞いこんできたのである。そして連日のようにその引合が神戸の貿易商に来たが、相場は全くの独占相場で、直治はロンドンと結んで相場を自在のものにしてしまった。そして小豆将軍呼ばわりの名を天下に響かせた。

 第一次世界世界大戦がもたらした豆ブームの震源地は、産地帯広やそれに隣接する釧路よりも小樽だったのは、取引所がありそれが神戸貿易商と結びついていたからで、その頃市内二十数ヶ所の豆撰り工場には女工募集の広告がデカデカと貼られ、厚化粧で金の指輪を誇示した女工が肩で風を切って通ったものも一異観だった。

 堺町に取引所が移ってムジリの尻をはしょり、舶来のゴム長靴をはいた仲買人は「売った買った」と叫びながら颯爽と得意先を走り回ったのである。七つの見番二百九十余名の芸者の引く手あまたは云うまでもない。十六軒百五十名の娼妓の南廓、二十一軒百四十名の北廓の柳明花暗の巷も沸きに沸いた。商店の若い哥兄連はドンブリに札束をつめこんで、妙見川畔のスキヤキ屋ときわ(後に定山渓に移転、温泉旅館として原形を保っている)を第一会場にして歓をつくしたとか。

 しかし山高ければ谷深しの相場師の云う通り、好況が激しければまた不況も深刻である。大正七年の反動不況に惨敗した直治は、九年になって再び小豆の買付に着手、更に味噌材料の大豆の代わりにする手亡を買付けたが、生憎満州からの大豆の大量輸入のために、その手亡は陽の目を見ないで空しく腐り果ててしまった。

 小豆将軍の桃源の夢は勿論、豆ブーム自体も槿花一朝の夢になって深刻な不況が続く。大正九年から十年にかけて小樽豆撰り工場の失業者は六千人。殆どが女工だったので売春婦に転落した者も続出して令嬢スタイルも‶往時茫々〟という無慚な‶転落の詩集〟だった。九年八月の第七回道議選挙などは小樽区は二名の定員に二名立起という空前絶後の低調ぶりで、有力者は家業整理一杯で選挙どころではなかったのだ。

 しかし夢よもう一度の直治の執念は果てない。九年にはなおも十七万俵を買い付けて関東大震災には三万俵を芝浦へ運んだ。

 以上が商人直治の素描になるが、政治家としての直治を語らなければならない。明治二十六年、有幌町他二町村の総代理人が政界五十三次の振出し。三十二年区制の施行と共に区会議員。三十四年には全道を制覇していた政友会に入党して翌年の第七回衆議院議員選挙(北海道では第一回)にうってでた。

 これを推すのは委託派と称する海陸産物商派で板谷が参謀。一方錚々たる大物の後立で出馬したのは前年に道会議員、続いて商工会議所会頭になった元老高野源之助である。源之助は旧会津藩のサラブレッド、然し直治は所詮目に一丁字もない口下手の駄馬だった。予想は惨敗という観方だったが中盤戦で直治を中谷宇吉達がバックアップして、サイコロが振られると二百二十四票の差をつけて金的を射止めてしまった。これも万事金の力と云ってしまえばそれまでだが、直治の心中まさに衝天のそれであったに違いない。

 翌三十五年は同じ組み合わせで直治の落選。

 三十七年三月の解散選挙では金子元三郎が独占。高野の地盤の公民会では渡辺兵四郎、すなわち同会議長の大物と政友会の黒幕寺田省帰が手を握り、四十一年五月の直治と兵四郎はガブリ四つの大相撲となったが、同票で年長者の兵四郎に軍扇があがった。

 無念の歯がみをかんだ直治はあの手この手で、兵四郎の票のなかからたった一票の無効投票を探し出して訴訟して兵四郎は無効。四十二年十二月に河野正治を破って返り咲いた。晩年になって貴族院議員にも当選している。 

 こうして直治は花道で陽々六法を踏んで急散の相手を得た。地味な越後衆はえてして辛気臭い木綿しか着なかったが、彼はいつも斗目付羽織袴白足袋のリユウとした身なりで通し、邸内に小豆の俵で相撲場をつくったり、魁陽亭(海陽亭)など一流料亭に出歿してまさに反越後衆気質の典型になった。

 その勇み足をいつも引きしぼっていたのは賢弟の喜蔵である。

 代議士としての直治は、生彩に乏しかった。ただ小樽区では政治熱の火付役たる貫録をみせ明治中期から大正初期にかけて全区を興奮のるつぼにたたきこんだ港湾埋立問題の実力者として運河方式案の采配を握った実力者として重きをなしている。

 直治は大正十五年二月東京芝の邸で七十一才の劇的な人生を終えた。その頃、平磯トンネルを抜けた線路沿いにある長大な倉庫には、まだ十七俵の小豆が暗い中にひっそりとうづくまり、見すてた主人を慕って泣いていたという。その倉庫は今はない。

 後年、彼の業をしのんで銅像がたてられたが、いま最上町の精周寺にわずかに台座が残されている。なお大正四年に商業会議所会頭になった。

~小樽豪商列伝(2)

 脇 哲

 月刊おたる 

 昭和40年新年号~42年7月号連載より