二p(政治 新聞)の殿様 金子元三郎(上)

2020年04月24日

 透矢(すきや)越後という着物があった。今ではすっかり頽れてしまったが明治のころには通人、伊達者が好んで羽織って妍を競っていた。小樽商人の越後衆中一貫してケチの宿志を貫いた板谷宮吉を木綿にみたてたならば、金子元三郎はさしずめこの透矢というべきだろう。

 戦前の金で一億円も積んだとまことしやかに伝えられる宮吉は、自宅に座敷牢を設けて紙幣を数えることが至上の悦楽。ある日一枚ずつ置いて数ずさりしているうちに牢の外にはみ出して、勢いあまって二階のハシゴ段からころげ落ちたという‶伝説〟がある。一方元三郎は富岡町三丁目の金子城の庭園に将棋の駒に擬した芸者を配置し客と対戦、メガホンで布石、いや布体したという野放図もない大尽あそびの‶伝説〟がある。金になった歩の女をその客にあてがったというのがその遊興伝のオチである。とにかくケチであれ蕩児であれ図角をあらわした人間の身辺には、絶えず実説と虚説のケジメがつかない伝説が流布され、そのあげく稗史風の伝記が編まれるのが常であるが、以上の‶伝説〟は二人の性格を単的に現す‶寓話〟でもあるようだ。

 あいかし日本に亡命した朝鮮独立の志士金玉場を庇護したり、自分の設立した新聞社の主筆に東洋のルソーと謳われた中江兆民を招致したりするあたり、元三郎の行動半径は広くそのボルテージも高く多分に国士的な風格があるようだ。したがって彼は政界経済界の両棲動物というより、ホームグランドがいつの間にか政界というチミモウリョウの跳梁する密林にねぐらを構えて、主になってしまったというのが偽りのない姿なのだが、その移転費用は先代、先々代がしし営々と蓄えたものである。

 分限者金子家が万石の座をなしたのは先々代だから、この‶金子の殿様〟は三代目に当る。あさに〈吉家と唐様で書く三代目〉で、壮麗豪大な城を明け渡してしまったのは彼であるが、彼は唐様どころか横文字(アルファベット)で書いたかもしれない。そんなスマートな感覚があった。

 明治二十四年五月十一日。といえば彼が北門新報を発刊して一ヵ月になるころだが、巡査津田三蔵が訪日中のロシア皇太子にテロを加えて未遂に終ったという大凶事が発生した。この時の朝野の驚愕狼狽は想像に絶するものがあったが、道民を代表して宮内省経由の謝文をしたためたものは元三郎と札幌の津島嘉三郎、松前の佐藤信寿である。

 そのころロシアのロは魯を使っていた。元三郎は二人をかえりみていった。

 「魯は魯鈍のロに通じ礼に失する懼れがある。この際露に代えたらどうです?」

 こうして元三郎の発案が登用されたのはいうまでもなく、それ以来日本のあらゆるところで露が使われるようになったといわれる。

 さて金子家の家系を簡単に書く。家祖の生国は詳らかではないが代々松前福山で漁業を経営した。天保七年に元右衛門が没して越後生まれの養子が襲名した。この人が金子家の富財をきずいた人である。

 安政六年に箱館奉行の御用商人に取立てられ樺太まで進出しようとし、その船を飾る日章旗までいただいたくらいだから信用絶大だった訳である。元治元年に貧乏藩松前家に千三百両を冥加金として献納、慶応に入ってから四隻の船を持ち苗字帯刀を許される身分になった。

 豪商が櫛比する福山でもなかなかの羽ぶりだったが、非常に機智と諧譃に富んだ人でヒューマニレーションは好調だったという。そして明治九年七月歿。

 ここで元右衛門の甥元十郎、その後見人であり兄である元三郎と元右衛門の養子定吉、それを推す元右衛門の妻との間に家督争いが始まった。しかし元三郎の実力が功を奏して跡目を元十郎が跡目を継いだが、この人は多病勝ちで十二年の七月に他界したので元三郎が金子家を相続したのである。

 元三郎はなかなかの甲斐性男で家の分裂の後をうけてその建て直しに奔走し、十七年には焼尻天売にも漁場を開き福山の町の総代人にまでなっているが、初代板谷宮吉が丁稚奉公したのも彼の代だった。しかしニシン漁の北上で福山に見切をつけ小樽の色内町に駒を進めたのは十八年、そして三年後の十月に亡くなった。

 こうして元三郎の入籍前の実子がその後を継いで、ここに透矢越後の若殿様が男の花道の第一歩を歩きはじめた。なお彼の出生は新潟県三島郡寺泊町の生れ。明治二年四月八日だから金子家の大黒柱になったのは若冠十九才ということになる。

 

 東都に遊学し業終えて直ちに政界人となり在野の志士に交はり盛んに政治に奔走す、

 (大正三、北海道人名辞書より)

 

 してみれば彼の後年の政治熱は青春時代からの延長ということになるが、このころ金玉場や頭山満などと交った。彼の北門新報にあずかる金の力は大きい。

 金は朝鮮独立党の領袖で明治十七年のクーデターに失敗して日本に亡命したが、絶えず暗殺者に脅かされた。二十二年の冬札幌に飛び、植物園附近の家(この家は南二条西六丁目に移転し、つい最近まで残っていた)に住んで私服巡査に護衛されていた。専ら囲碁三昧に明け暮れたが、円山の榎本武揚所有の土地の近くに彼の偽名岩田周作名儀で何町かの土地を持ったことや、滞在費として国庫から毎月五十円の金を貰っていたことが第六回帝国議会で問題化したが、元三郎はしばしば金に会って金銭の世話もした。金に贈った銀の花立一組は今なお札幌市立図書館に保存されている。 

 北門のネーミングは金だといわれているが北門新報は阿部宇之八(HBC社長阿部謙夫父)の北海道毎日の対抗紙として発行され、後に東武、吉植庄一郎の北海時事と共に合同して北海タイムスになったもの。山田吉兵衛がスポンサーになったこの毎日や、渡辺兵四郎、高橋直治の出資によって発足した上田重良の小樽新聞と共に今日の北海道新聞の中核になった名門の新聞である。なお小樽新聞は民政党の前身憲政会支持の新聞として元三郎や山本厚三も援助したし、また寺田省帰も政友会系の北門日報を創刊するなど、小樽豪商の新聞熱は極めて旺盛だった。

 北門新報の主筆に中江兆民を迎えたのは金の肝入りともいわれ、元三郎が候補を推薦してほしいと頼んだ時「俺なら文句ないだろう」といったともいわれる。金の政治的パトロンは土佐の後藤象二郎で、大井憲太郎や第一代道長官岩村通俊の弟林有造、吉田茂の父武内綱、福沢諭吉などが有力シンパだった。兆民は若い時から後藤の経済的庇護をうけており、また、二十三年一月には大井と再興自由党(すぐ板垣退助や河野広巾の愛国党と合同して立憲自由党になる)を結んだ仲間であるから金の推挙も十分考えられるはずだ。

 兆民は二十三年、第一回の衆議院議員に当選したが仲間の弱腰に失望していち早く野に下った。その無冠時代に元三郎と会ったが開口一番「貴公が小樽の化物」と叫んで彼のドギモをぬいた。元三郎は兆民に八千円を渡して主筆に迎えたのである。

 この費用で印刷機などを購入し資本金二万円色内町で発足したが、この時の主要社員は柳内義之進、山崎知造など。第一号は二十四年の四月二十一日発行部数は二千部だった。後に北海タイムスの編集部長になった村上祐も入社した。

 この発行の辞を書いた兆民がやっと腰をあげて上野を発ったのは七月二十一日。日記には〈何日に出発すべきかを定めざりし〉という風来坊ぶり。仙台から船で二十七日午前五時小樽に入港、キト旅館に入って早速元三郎に会った。翌日は魁陽亭(今の海陽亭)で小樽の朝野のお偉え方えが前道長官渡辺千秋を招いて祝宴を開いたが兆民も列席、永山に誘われた二次会で酔い潰れている。二十九日はライバル北海道毎日の主筆久松義典と長官邸を訪れまたしても祝杯。三十日は永山との約束があったが一度会うとまたしても酔い潰れるという懸念があるのでスッポラかした。

 こうして兆民は元三郎の世話で相生町七十七番地の元、森小樽郡長の家にネグラを構えたが、なにしろ〈北海道は夏でもアワセを着用しなければならない〉とか、〈北海道の開拓はドシドシ移民を迎えること。そのためには移民の恐れる熊退治が必要。そのためには屯田兵を動員すべし〉といった論説ばかり。専ら花明柳暗の巷に入りびたっていた。

 二十五年五月。ライバル紙毎日の社屋が大火の類焼で炎上してしまったのを機会に日報は札幌に進出して兆民が社長、村上が主筆になったが元三郎は兆民に失望し始めた。そこで兆民は社を辞して現在の南一条の日劇附近に紙屋を開いたりしたが、サッパリ芽が出なかった。

 兆民は勉学時代に深川遊廓に流連してフランス語塾を破門されているし、二十年保安条令で東京を追われた時、土地の新聞社主催の歓迎会では席にはべる女を別室に拉して、しばらく経ってからシャアシャア姿を現して怪気焔を続けたという。また群馬県で妓楼経営を計画している。弟子である大逆事件の幸徳秋水も彼から女遊びの手ほどきをうけた一人だった。二十歳そこそこで新聞社をつくった元三郎にしてみればこの‶東洋のルソー〟の遇する法もなまなかではなかったろう。

 なお兆民の娘千美子は吉田茂の異母兄竹内虎治の許に婚いだから、兆民は吉田の義理の父に当るわけだ。新聞記者嫌いで有名なこの宰相は兆民を何と見ただろうか。

~小樽豪商列伝(5)

 脇 哲

 月刊おたる 

 昭和40年新年号~42年7月号連載より