漁網の先駆・渡辺兵四郎(上)

2020年04月28日

 今手元にある色褪せた〈開道五十年記念拓殖功績旋彰記〉のページを繰ってみると、選ばれた百三十人のスターの中で小樽区では山田吉兵衛、船木忠郎、藤山要吉、渡辺兵四郎の四人が名を連ねている。

 この四人は奇しくも、明治二十四年の小樽救難所設立発起人になっているが五十周年の時は山田、船木が故人である。では兵四郎の表彰文を再録して彼の足跡をたどってみよう。

 

 小時羽後ヨリ本道小樽ニ航シ爾来孜々トシテ力ヲ漁業ノ発達地方ノ開発ニ効スルコト五十余年一日ノ如ク最モ心ヲ鰊角網ノ改良ニ潜メ刻苦研鑚遂ニ其ノ功ヲ奏シテ之カ普及指導ニ努メ斯業ノ進歩ニ貢献シタコトハ尠カラズ夙ニ漁業組合頭取、水産組合長、北海道会議長、衆議院議員、小樽区長其ノ他ノ公職ニ挙ゲラレテ熱誠其ノ職ニ尽シ区ノ元老トシテ徳望高ク旧山田家ヲ輔翼シテ令誉アリ

(後略)

 

 兵四郎がアイヌ語そのまま、オタルナイと呼ばれていた小樽の土を踏んだのは十五才の時。そして八十七才で鬼籍に入ったのであるから、七十三年という長い年輪を小樽の盛枯と同じ次元で生き抜いてきたわけである。彼は秋田の能代湖に面した貧しい部落で生まれた。生家は祖父の時代に破産状態に陥った後で貧窮と逼迫のドン底の生活が続く。

 七才の頃から寺子屋に通ったものの、とかく家事に忙殺されて禄すっぽな習いも出来なかった。が、それでも三年間はどうやら続いた。

 その彼が頭角を現したのは酒飲みコンクール。しかも十一才の時。こう書けば幼時も手もつけられない不良であったのか…と思われるかも知れないが、そういう訳ではない。

 当時の藩主佐竹候は領内から元服前の少年を集めて、酒のみのコンクールを行うという灘の地らしい行事であるが、兵四郎が能代郡の代表に選ばれたのである。

 ありていに云えば、強敢な軀力と土根性が大人達のお眼鏡にかなったのだろう。

 彼は早速トレーニングにかかった。そして栄冠獲得の秘訣を考えついたのである。それは一尺程の絹糸を前歯にひっかけ、糸といっしょに大杯を傾ける。やがてソロソロとその糸を引き出すということなのだ。

 これは糸の引き出される咽頭の刺激で、腹中の酒が吐き戻されるという仕かけなのである。こうしてコンクールに臨んだ彼は見事第一位になった。城内からの拝領品を肩にし、郡代やその家来共の連中の急〇の拍手をうけて意気軒昂たる顔付で凱旋したのである。

 やがて数年。当時の蝦夷松前の盛賑はいつとはなしに彼の胸にたたきこまれていた。そして松前行は我が日我が夢となったのだ。

 だがその悲願は容易に実現しない。かえって図抜けた体格を資本に前髪を剃り落して、元服期限を早めて奉公に出された位である。

 だからと云って渡航を放擲した訳ではなかった。十五の春、能代は一年に一度の鹿山祭で湧きかえっていた。

 能代港は津軽の十三湊と共にいつも米と杉の積出港として何十艘の北前船がもやっている。彼は一そうの千石船にこっそり忍びこんだ。そして息をこらして出港の時間を待った。彼は密航を企てたのである。

 結局途中で発見されてしまったが、船頭や船夫はこのどこか愛嬌のある少年に好感を持った。

 そして夢にまで見た蝦夷の土を踏むことが出来た彼は山田家の店に丁稚として入ることになった。年は万延元年、例の井伊大老が桜田門外で春雪を紅に染めあげた年である。

 この時山田吉兵衛はまだ五才であった。

 兵四郎は夏には早くもオタルナイの山田家で働くことになった。漁場の方に廻されたりしたが、文久三年再び小樽勤めとなる。

 漁場の掃除と走り使いが主な仕事であったが、その勤勉さが主人兵蔵の知遇を得ることになった。

 やがて菊は栄え葵は枯れ御一新。彼はホヤホヤの手代であったが、このオタルナイにも運上制度改革の嵐が吹き荒んだ。これまで町会所主役すなわち名主山田兵蔵が代行していた運上取立を、新設の勤番所の役人が直接行うのである。

 この措置に不平の烽火をうちあげたのは渡世人の連中。当時二八制度の運上の中に非公式ではあるが、博徒連への配達が廃止されたので、ここにオタルナイ開びやく以来の大騒動が発生した。これは明治元年四月のことである。

 暴徒の頭領は疵金の権平それに万作。用心棒は江戸浪人下国雷蔵と荒谷兵三郎、連中は朝里、銭函方面のヤンシュを煽動した。七百人位の暴徒が手に手に棍棒竹槍をふるって勤番所を占拠、今の南小樽一面を掌中に収めてしまった。

 当時の南小樽は金の光を曇らすほどの散財が多かったので、世上金曇町と呼ばれた花街であったが、ボス共は掠奪した公金百五十両を懐中に酒よ女よ、で気勢をあげたのである。

 権平は町会所に難題をふっかけてきた。それは制度改正の先棒をつとめた謝罪金として千両を収めろということである。

 この交渉の主役に選ばれた者こそわが兵四郎、ここに持前の剛腹さと奇略が発揮される。過ぐる日機智で領内一の‶童酒豪〟となった彼は、又しても酒を道具に使おうと企んだ。

 敵陣に単身乗りこんだ彼は

 「いかにも親分の顔をたてて大枚千両は差し上げましょう。が、しかし今は手許に有りゃせん。明晩町会所においでなすって下されや」と滔々と述べた。

 この経緯を聞いた主人や町会所の連中は、その大金は何処から捻出するのかとオロオロするばかり。

 やがて約束の時間。権平は用心棒と児分を従いやって来た。兵四郎は

 「親分、慌てなさんな。千両はすぐ差上げるから前祝にまァ一杯やんなされ」と四斗樽を運びこんだ。

 「この機略が功を奏して、泥酔した連中はアレヨアレヨと云う間もなく一網打尽に就縛されてしまったのである。権平、万作、兵三郎は打首。雷蔵は斬死。こうして四日間にわたる騒擾は幕を閉じたが、軍使兵四郎の名が轟き渡ったのは云うまでもない。

 やがて兵四郎は山田家の支配人になり、兵蔵の死と共に明治五年家を継いだ吉兵衛を補けた。その傍ら副業的に荒物商を開いたが、明治十一年頃ささやかながら漁業家の仲間入りした。そして漁獲物の二八制度を漁業税として現金で納入せよ…ということである。

 この革新的オピニオンリーダーは、固陋の連中から憎まれて種々な迫害を受けたがとどのつまりは成功している。

 また彼が、従来の伝統を破って鰊角網を考案したのは明治十九年であった。

 それまで使っていたのは刺網である。

 道庁の水産課ですら兵四郎のプランには二の足をふんだ。しかし彼は粘り強く交渉、それでは試験的に…という訳で一応許可になったのだが、見事この角網によるニシン漁は小樽地方漁業史上、かって見ざる豊漁を示したのであった。

 この貢献が認められて、二十一年には小樽漁業組合頭取の重職に就いた。この時からそれまでの佐助を兵四郎に改めたのである。この年、漁具の改善に奔走して五名でコルサコフ(大泊)に赴いている。日本から移入されている反物類をロシアの高官夫人にの前で分類説明したりして、思わぬ外交的手腕を発揮した。そして帰国後鰊角網に綿糸を使用するという大改革を行ったが、これによって経費の節減の道をひらいたのである。

 二十四年には小樽郡の総代理人になった。この年フランスの軍艦が入港したが、艦長は小樽の代表者を艦内に招いて午餐会を開いた。

 戸長や伍長と共に乗りこんだ兵四郎は外国の酒も飲む、ホークとナイフを器用に使って洋食も食べる。最初はタカをくくっていた艦長もその洗練された挙措に讃嘆したという。

 二十六年小樽郡他六郡漁業組合連合会長、二十九年小樽商業会議所副会頭、三十年小樽精米会社社長、三十一年に北海生命保険会社取締役。三十二年小樽区議会議員。そして三十三年には小樽商業会議所会頭の椅子に就いた。

 明治二十四年に自由党の植木枝盛が北海道議会の開催の建白書を提出。これがトップになって札幌、小樽、函館の有志の請願運動が開始された。

 そしてこの十年間にわたる〈自由を吾等に‼〉の運動が稔って、北海道会法が施行されたのは明治三十四年三月一日。四月一日には選挙法が発布されたのである。

 選挙権は二十五才以上の男子。三年以内道内に在住し、土地四町歩以上か引続き三年以上直接国税を三円以上収めた者に限る。

 三区十八支庁の有権者は約一万五千名。しかし八月十日に行われた第一回の選挙は棄権率が多く、金的を得た三十五名も最高点が小樽の高野源之助で三百九十票。最低は紗郡支庁の倉沢惣太郎で僅か三十七票であった。

 そして兵四郎もこの三十五名の一人に選ばれたのである。

~小樽豪商列伝 (7)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より