野口吉次郎とその衛星の群像 上

2020年05月04日

 日本における清酒酒造会社のベスト五を列挙すると、月桂冠を筆頭として大関、白鶴、白雪、そして北の誉がこれに続く。しかし、ここでいう北の誉は小樽の北の誉香蘭(社長野口誠一郎)、札幌北の誉(社長西尾長平)、旭川北の誉(社長岡田正雄)三社の連合勢力を指すのであって、厳密にいえば三社は別会社であるから、敢えて北の誉を五位と豪語するのは、先走っていることになるかもしれない。

 しかしこの三社は、強靭な組織によって結ばれた運命共同体である。そしてその核になった人物は野口吉次郎、すなわち現社長の祖父なのだ。

 

 彼は多くの酒神の祀祭をはぐくんだ。旭川北の誉創始者岡田重次郎、合同酒精社長の石家覚治、同社の再建の功労者堀末治…彼等はいずれも吉次郎によって送り出された。

 また、西尾長平の父に当る長次郎は吉次郎の弟で、同時に堀の岳父にあたる。

 このように主従と血縁の線は厳密に張りめぐらされて、ここに北の誉一門と合同酒精という日本の視野のなかで展望し得る二つの名門が形成されたのであるが、その成功の秘密をときあかすには、矢張り吉次郎を生んだ北陸石川の酒造の伝統と、その堅実第一義の県民性を知る必要があるだろう。

 吉次郎は、安政三年七月能登すなわち石川県の河北郡花園村二日市で生れた。

 岡田重次郎も同県の能美郡御幸村、そして石家覚治は小松市。また、今年八月十三日に鬼籍に入った日本清酒社長柴田衛治の父であり、札幌における酒造の草分けとなった与沢右衛門は、羽昨郡北庄村…このように北海道の酒造界で〇業を成した人には石川県人が多い。

 由来越後から以西の北陸地方は、日本における浄土真宗のメッカであった。堕胎、間引きは許されないという教養から、この地方は絶えず人口過剰に悩まされなければならなかった。

 そして旺盛な繁殖力を持った彼等は、移住と出稼ぎによって生計のルートをつかまなければならなかったのである。

 そのなかで、能登衆は上方へ酒造の杜氏や蔵人として、また江戸へは風呂屋の三助や町の夜廻りとして立志する者が多かった。

 前者は特に奥能登の飯田附近と、越前平野の者が多かったが京都伏見の酒蔵で働く奥能登衆は、年々千人を下らなかったという。

 さて、吉次郎の父西川善兵衛は、堕胎も間引きも返上しなければならない北陸の一庶民として九人の子をもうけたが、吉次郎はその四男に当る。西尾長次郎は弟、そして夕張郡角田村の名橋農場の開拓に従事するため、遅れて来道した西尾善助は兄である。

 西川家で生まれた子が、何故野口姓あるいは西尾姓を名乗らなければならなかったのか。これは養子という境遇がもたらした改姓である。

 特に吉次郎は七才の時から、実に四回に及ぶ養子の口を転変した。堀末治も養子である。実父の旧加賀藩士興津憲亮は、下僚である養父堀徳次郎と酒盃を傾けているうちに、せがまれて身重の妻が男子を産んだならお前にやる…という約束をとりかわした。

 既に誕生以前からその運命の軌道が変更されたのだが、物ごころのつくころから四回も養子口を変えたという吉次郎は、おそらく悲しみというべきものの味を、幼くして嘗めつくしたにちがいない。

 二十才になるまで黙々と耕農生活を続けた。そして明治九年になって、金沢在の直江源兵衛という醬油醸造店で働くようになったが、この店での五年間こそ彼の醸造家としての資性が十分に開花された時期である。

 やがて金沢で醤油の小売店を開いた。これは二十六才の時のそして三才年下ののいと結婚した。

 二年経って金沢の野口つると養子縁組、ここに野口吉次郎が誕生したのである。

 小売だけの安住をいさぎよしとしない彼は、翌十七年土蔵、板倉を新築し醬油の醸造に手を染めた。ところが思惑が外れて僅か一年で倒産してしまった。

 失意の彼をして起死回生の策となったものは、北海道での旗上げである。

 開拓の途上にある北海道の不定型の魅力は、彼をとらえて離さなかった。彼は遂にサイコロをなげた。

 

 これが明治十九年三十才の時七月十七日、伏木港を出発する彼の心情は、流離の哀感で曇っていたろうか。それとも向日の気概に燃えていたろうか。

 入舟町村林履物店の奥の陋屋にわらじを脱いだ彼は、古着の行商を始めた。そして秋過ぎには石炭積卸人夫になり、間もなく手宮鈴木艀部の傭いになったりしている。時の小樽は戸数三千三百人口は一万五千八百、ようやく商港史の開幕をみたばかりである。

 彼は醸造への郷愁と意欲を喪ったわけではない。むしろ機会をねらっていた。その機会を与えてくれたのは、色内町で醬油をつくっていた〇ヨ石橋商店の主人彦三郎である。

 では彦三郎はいかなる人物だろうか。

 彼の幼名は捨次郎、安政二年近江国彦根の商人彦治の五男に生れた。吉次郎より一歳上になる。

 北門の風雪が厳しくなった幕末、三十五万石彦根藩は蝦夷警備のため藩士を日高に送った。この時兄彦三郎は藩の御用達として箱館に渡り、米穀茶物商を開いたが、明治四年になって小樽に転じて同じ商売を営んだ。

 大阪の阿部幸という店で錬磨して四天王の一人に推され、弱冠十八才で大金六万円を抱いて山形まで商いに飛んだという利け者の捨次郎が、小樽に来たのは明治七年、兄の仕事を助けるためである。

 五年後兄の死亡によって襲名して彦三郎を名乗った。

 当時北海道で消費される醬油の主勢が、本州産であることに気付いた彼は、道産の大豆や大麦を原料とする醬油の製造に着手した。

 この石橋家の杜氏となった吉次郎は、まさしく水を得た魚となった。後年京都に隠居した彦三郎を訪ねた吉次郎は「ご主人の恩義を忘れたら野口家は崩壊する」と述懐しているが、彼の座右の銘である〈恩を真実に感ずる心、恩を努力して報ずる心〉が人生観として定着したのは幼時の薄幸と宗教への帰依と、」そして彦三郎への敬愛の復合のゆえんであろう。

 

 明治二十三年。この年は吉次郎にとっても北の誉という会社にとっても、ひとつの里程標が樹立された極めて意義深い年である。

 この年の九月、彼は主家の下請けとして醬油販売の店を張った。これが北の誉香蘭や野口商店の操業である。当時の小売価格は鶴印一升十七銭、亀印十二銭、一等印十銭であった。

 翌二十四年、弟の長次郎が入店した。彼は金沢で吉次郎の店を手伝ったり、醬油と油の小売店を営んだりしたが、銅山の採掘に手をひろげて敢えなく敗退してしまった。

 そこで若い衆を伴って来道、鉄道敷設の下請けとして現在の室蘭線の工事などをしたが、これも香しくなく結局兄を手伝うことになった。

 また二十六年には、岡田重次郎が兄市松と共に入店した。北の誉御三家の開祖がこうして一堂に会したのは、吉次郎が店を開いて僅々三年後のことであった。

 では、札幌北の誉の原型が生まれたのは何時のことだろうか。

 彦三郎は、兄に劣らぬ勤勉さを発揮した長次郎に札幌の店の再建の采配役を依頼した。長次郎は一年間の間にそれまでの三倍から四倍までに達する醬油を売りさばいて、主人の期待を裏切らなかった。

 

 明治三十一年。〇ヨ石橋商店の商運も隆盛で、奥沢に醬油新工場を建設した前の年に当る。長次郎は同郷で偕行社の雇いをやっていた通称仙さんという人から、耳よりの話を聞いた。それは近々札幌に、新しい連隊が設置されるらしいという情報である。

 これが月寒連隊であるが、長二郎は早速手をまわして御用達になることに成功した。爾来彼と軍との関係は緊密になり、日露戦争の時は朝鮮まで進出している。

 

 吉次郎が宿願の酒造を開始したのは明治三十四年であった。この年彼は山田町の東野谷酒造所の倉を借りて清酒製造を始めたのである。

 これを担当したのは松田三次郎と岡田市松。

 しかし市松は翌年早くも独立して奥沢で花吹雪稲川などの銘酒をつくっている。

 

 明治四十五年には小樽焼酎会社々長、大正十一年には第一期の市会議員、昭和六年には市政功労者として表彰を受けるなど多彩の活動を続けた。

 

 吉次郎、長二郎の二兄弟(善助は別として)と、市松、重次郎の二兄弟の成功は、まさに二幅対というべきだろう。しかし市松は北の誉一門から独立し、そして彼がつくった企業は、その後日本清酒に統合されてしまっている。したがって彼の立場だけは異色であったわけだ。

 

 吉次郎は明治三十五年には、早くも奥沢町の現在地に酒造所を新築(木造二棟八十四坪)しているから、その商勢旭日の勢いであった。

 そしてその年の生産は八百五十石。銘柄は北の誉と旭養老、その代表格の北の誉の商標登録を行ったのは三十六年である。

 

 なおこの時期には札幌では札幌酒造合名会社、すなわち日本清酒の前身が発足、本格的生産に入っていたが、三十三年の札樽の比較は、札幌の醸造者は三十三人、生産高が一万八千六百十五石、小樽は四十二人で、一万三千五百九石、吉次郎はその四十二人の中のエースとしてめきめき頭角をあらわしていた。

~小樽豪商列伝(9)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より