野口喜一郎とその衛星群

2020年05月05日

 我国の酒造界の名門、北の誉の創始者野口吉次郎が不帰の人となったのは、昭和八年二月二十日である。

 そのころの野口家と周辺の人や企業の状態を督見すると、嫡子の喜一郎は野口商店社長として采配をふるい、後に合同酒精の総帥となった石家覚治がこれを助けていた。

 そして孫にあたる現社長の誠一郎は小樽商高に在学中であった。

 昭和五年十月現在の多額納税者ベストテンでは、吉次郎は板谷宮吉、藤山要吉、板谷順助に続いて第五位、そして喜一郎は第八位であるから、古着や、沖仲仕からたたきあげた吉次郎が築いた野口家は、既に小樽有数の分限者としてゆるぎない地位を築いていたことになる。

 喜一郎の友人であり、西尾長次郎を岳父とする堀末治は当時野口系の合同酒精専務、西尾商店取締役。そして遠く福岡市の大日本酒類株式会社の専務を兼ねていた。

 吉次郎没後二年目の昭和十年には喜一郎は小樽市酒造組合長また旭川の岡田の岡田長次郎も同市の酒造組合長になり吉次郎がはぐくんだ人達は、いずれも斯会のトップレベルの光彩を放っていたのである。喜一郎は明治二十年十月十八日生まれ。父は石橋彦三郎商店の杜氏として醬油醸造に専念していたころだ。

 そして十五才に至って新設の庁立小樽市中学(現汐陵高校)に入校した。その同級生に堀末治がいた。

 卒業後直ちに一年志願兵として旭川第七師団に入隊した。除隊後中尉、後に小樽在郷軍人連合会分会の副会長、そして昭和五年の紀元節には、宇垣陸相から軍事功労者として表彰されている。一方堀は、卒業後海軍兵学校を受験して成功しなかった。二人の軍人が志ざしたのはまことに興味深い。

 喜一郎をヒンデンブルグに、堀をフォッシュに、それぞれ第一次世界大戦の独仏のライバルに見立てた人もいるが、いずれにせよ二人が将の将たる器であったのは云うまでもない。

 喜一郎が旭川の営庭で軍技に励んでいた明治四十年には、重次郎は同じ旭川で酒造を開始した。その名儀代表は吉次郎で、この年の生産高は八百二十九石である。そして海兵をすべった堀は、大胆にも渡米を決意して旅券まで入手したが、折からの西部名州の排日運動で志が果されず野口商店に入った。

 喜一郎の弟は明治四十二年に小樽中学を出て店に入ったが、この年に喜一郎は西飯リウと結婚した。また四十三年には誠一郎が誕生。そして堀が札幌の西尾商店に転任している。

 「第一に野口翁は人格者であること。第二に酒造は科学的な職業であること」これが堀の野口商店入りの動機であるが、御用聞きと配達のため、わらじばきの甲斐甲斐しいいでたちで精励した彼は、早くも主人の知遇を得て西尾店のテコ入れのため札幌に移った。

 この気鋭の支配人は、経理部門で独特の予算統制を実施して新風を導入した。それが反感を買って従業員のボイコットをうけたりしたが、彼は断じて初志を翻さなかった。そして見事に経営の危機を救い、これが縁で長次郎の娘を妻に迎えたのである。

 

 大正三年酒造に着手して八百六十石生産。これが札幌北の誉の鼻祖となるわけだ。また堀は危機にひんした小樽北海屋商店の再建のため専務となって敏腕をふるった。

 しかし彼が、不良会社再建の名‶サルベージ屋〟として名声をはせたのは合同酒精のテコ入れである。合同酒精の前身は日本酒精会社で、明治三十五年に旭川で馬鈴薯原料の酒精を製造することを計画し、ドイツから技師や機械を導入した。

 日本で初めてという期画的な試みであったが、僅か一年で空中分解してしまった。

 これを惜しんだ神谷伝兵衛は神谷酒造合資会社としてこの事業を継承したが経営は苦しく大正十年過ぎ、当局のすすめもあって遂に野口の傘下に下ることになったのである。

 これを機に名寄の東洋酒精、士別の北海道酒類工業、倶知安の北海酒精の四社が合同して、ここに合同酒精が発足した。時に大正十三年十一月。

 専務として入った彼は‶予算は決算なり〟の信念のもとで五年計画を実施、四年後の昭和三年の出火でやや遅れたが、結局七年目には整理を終え八年目に処女配当までこぎつけたのである。二十年四月まで専務、それから社長、後にその地位を石家にゆずったのは参議員職が多忙になったためだ。

 「酒は七才から飲み、女も愛する」という彼であるがしかし吉次郎の薫陶で浄土真宗への帰依は敬虔である。

 

 合同酒精は昭和十三年から新清酒、十余年にはトウモロコシ原料のアセトン、ブタノールの大規模な生産に乗り出して、新機軸を画した。それまで製造していた酒精と焼酎に、新酒精とスイートワイン、ウイスキーが加わって次第に総合メーカーに成長、現在の年間売り上げは八十億円、焼酎は日本市場の四割を制し、合成酒が二位で葡萄酒は三位の日本屈指の総合酒造メーカーに発展した。

 

 合同酒精の現社長石家覚治も吉次郎の手によって育まれた。彼は明治二十九年四月、石川県の小松市生れ。野口商店に入ったのは大正七年である。

 そこころ野口商店の資本金は十五万円、定員四十一名。小樽は雑穀ブームで賑わっていたから店の商勢もおおいに進展していた。

 当時、店では定員の給料は毎年正月に精算するシステムになっていた。これによって全員の稼ぎ高や積立が歴然とするのであるが、覚治が最低で剛直な喜一郎に叱責されて暇をやるとまで云われたのである。

 その時は店を飛び出そうとまでしたが卒然と大悟、心機一転した。その発奮が稔って昭和五年、それまでの野口吟醸株式会社が株式会社〇ヨ野口商店になった時、彼は取締役支配人に抜擢された。

 余談ながら、この年の北海道貯金長者番付では、前頭四枚目であったというエピソードがある。

 十二年に堀や喜一郎の指示で理研酒販に支配人として出向、十三年に東亜酒精工業支配人、二十年に合同酒精常務、そして現在社長であり北海道蒸留酒造組合班事長、彼もまた吉次郎という名伯楽の生んだ優駿であった。

 

 吉次郎の経営のバトンが、喜一郎に渡されたのは昭和に入ってからである。彼は人材育成に大胆な策を用いた。

 前述の石家の登洋もその一例。また建物に保険をかけるより人の保険が大切、と人づくりには並々ならぬ努力を傾注したのである。

 嫡子の誠一郎は明治四十三年生れ。昭和九年に小樽高商を出て取締役。そして商道を味得するためにはるばる清水市の鈴与商店に入った。

 十三年には野口商店専務。十九年の戦時統制では小樽の業者が合同して、資本金百七十五万円の小樽合同酒造株式会社が発足したが、誠一郎が園社長の椅子に座った。

 やがて敗戦。そして二十七年には社名を北の誉酒造と変更、資本金は五百万円、翌年には倍増して千万円となった。

 三十三年には二千万円、三十七年の十月には室蘭の香蘭酒造を合併して北の誉香蘭と改名した。この合併は、企業の合理化と業界の体質改善の好前例として十分注目されたのである。

 これに対して吉次郎の弟西尾長次郎の事業は、どのように転更しそして発展していったか。西尾商店は戦前企業統合で札幌市内の業者によって発足した札幌酒造株式会社の中核になった長次郎が社長でその子長平が取締役。昭和二十一年、長次郎が八十六才の長寿で鬼籍に入り、終戦当時合同酒精の勤労課長であった長平が社長を継いだ。 

 二十七年には小樽と旭川に呼応して札幌北の誉に改名、三十三年には遠く大分県の豊後家酒造を合併して業界の瞠目の的になった。

 

 次に旭川北の誉の開祖岡田重次郎について。彼は明治八年生れ。家は代々‶おしよどん〟と呼ばれる酒造の名家であった。しかし明治二十年頃から家運が衰退し、彼は兄市松と共に小樽の土を踏んだのである。

 時に二十五年五月。西尾長次郎の兄善助が吉次郎の主家石橋彦三郎経営の角田村農場の開拓のため、同じ石川県から来道して来て二ヵ月目のことであった。

 岡田兄弟は豆腐屋を始めたが翌年五月石橋商店入り。吉次郎との出会いは重次郎の生涯に決定的な指針をもたらした。

 明治三十三年、野口商店の旭川出張所が開かれたが重次郎はその責任者として転任、むしろがけの小屋から出発し、二年目には駅にほど近い三条七丁目に店を移した。

 これは白壁造りの堂々たる店舗である。費用は重次郎、吉次郎達四人が、千円づつ出しあった資本をもとにして作ったもので、ある意味では共同経営であり、その実質的経営者が重次郎であったといえる。

 しかし謙虚な彼は、決して表面にたたなかった。

 創業二十五周年に当る昭和十一年に、初めて株式会社岡田商店を名のったのである。

 明治四十年酒造に踏み切り、工場はまだ雑草の繁茂していた五条十五丁目に建立された。

 酒造タンクは杉樽でなければならないというジンクスを破って、耐用年数の長い鉄製を使い結果的には風味がそこなわれるという批判を打破したり、また他の業者には絶対公開しないという酒蔵を公開して、共同研究の資に供するなど、旧踏的な酒造界に新風を送りこんだのである。

 

 昭和三年から十二年間旭川酒造組合長、戦時合同では旭川酒類工業社長。また昭和十六年の北酒販の初代社長、さらに昭和十年から商工会議所会頭。彼もまた吉次郎と同じく仏門に深く帰依した。

  いくたびもかきにごすとも

  石清水

  水にみな前の姿なりけり

 これが敗戦に逢着した時の、彼の作品である。なお黄泉にたったのは昭和二十六年三月一日であった。

 

~小樽豪商列伝(10)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より