海運の先導 藤山要吉

2020年05月06日

 深川から増毛に至る留萌本線。そこには十二の駅がある。それらの駅名は北海道の地名と同じパターンでアイヌ語の意訳や訛化を和語にしたものが多いが、そういう常套とは異なって日本人の姓を冠したのが三つもあるから他の鉄道線に比べて比率が高いといえる。

 大和田駅。これは敦賀財閥大和田壮七経営するところの炭礦所在地に設置されたため。それから石狩沼田駅。この駅名は第三回の京坂与三太郎のくだりで触れた通り、北海道一の精米‶ビック・ビジネス〟を誇った共成株式会社を設立した沼田喜三郎の農場内につくった駅である。

 そして藤山駅。藤山要吉がこの一帯に三百町歩の農場、牧場を開いて北陸から六十余戸の開拓者を招いて開墾に当らせたのは明治二十九年のことであった。それから十四年。明治四十三年十一月二十三日に留萌本線が開通するとともに、この所有者の姓が駅名になったのだ。

 要吉はこのほかに忍路原野にカラマツなどの植林もしたり、幌内原野を開拓している。また屯田兵司令部の委託によって、宗谷郡声問原野の屯田兵移植予定地に農作物の試作をしたりした。ところが彼要吉の事業体の中核はあくまでも海を舞台にする。彼は海運業者なのである。

 しかもミナト小樽の‶海の道の設計〟第一人者として、その里程標樹立の業蹟には陸離たるものがある。そして小樽海運史の中興の祖として、板谷宮吉と肩をならべて盛賑を競った。

 しかしかれは一代にしてその剛球の腕を喪ってしまい、今日彼のイメージを現時点で再認識すべきものは殆んど稀薄である。豪気な数多くの樽商が歩んだ「ここを過ぐれば悲しみの市」(ダンテ)の道は、決して藤山要吉にとって無縁ではなかったのだ。

 

 要吉は嘉永四年、すなわち黒船来航の二年前に秋田の古谷多兵衛家の次男坊として生れた。家は佐竹藩出入りの御用油商で家格も資産も申分ない。

やがてこの辺陬の城下町にも時代の嵐の余波がひたひた押しよせてくる。尊王の志の強い佐竹藩と接触の深い父は、この闊達な次男坊に国内の動きなどを説ききかせるのであるが、幸か不幸か要吉は全然傾ける耳を持たなかった。眼は遠く蝦夷をにむけられていた。

 十七才…といえば幕政崩壊の前夜の慶応三年。一人の伴を連れて商用で津軽弘前に旅した。そして驚愕この上ない伴の哀訴をふりきって、ふらりと海をこえてしまったのである。津軽海峡を越える十七才の少年の心情を、ルビコンを渡るシーザーのそれに擬するのはいささかオーバーであるが、とにかく彼は福山廻船問屋の田中武佐衛門の家にワラジを脱いだ。

 そして数年間海のルートのさばき方を身につけたが、福山から次第に小樽に移行してゆくのを知ると、何の未練もなくこの‶老大国〟を見すてた。明治五年二十二才の時であった。

 ちなみに彼と同じく福山でトレーニングして、メイン・イベントを小樽に見出し名声をはせた人は非常に多い。山田吉兵衛、渡辺兵四郎、金子元三郎、麻里英三、山本久右衛門、宮越伊兵衛、新谷喜作……まことに多士齋々で、明治三十八年組の山本のほかは、いづれの者も幕末から明治初年にかけて移住した‶第一期優等生〟なのである。

 そして要吉の海運の階梯は軽やかであった。大十中村という廻船問屋で働いていたが、その甲斐性ぶりに着目し、ほれこんだので養子縁組にこぎつけたのは藤山重蔵である。

 矢張り福山組である重蔵は、親類筋の山田吉兵衛の委託をうけて信香町の勝納川橋傍で二年前に廻船問屋を開いていた男。要吉はじきに家業を継ぐことになった。

 このころの海運業は、幕末期からの近江商人や北前船の活躍を継承して次第に上昇線をたどるようになっていたが、酒井正七、犬上慶五郎、西谷庄八は勿論、板谷宮吉など後の海運の立役者達はまだ小樽の土を踏んでおらず、この事業の先鞭をつくったのは要吉と麻里英三くらいである。

 

 要吉は明治十二年に和船二隻を購入して小樽と北陸を結び海産物や肥料の販売も兼営した。板谷がまだ港町の海産商工藤家で五時間睡眠をモットーに、コマねずみのように立ち働いていたころである。

 

 明治二十年。要吉は北見天塩通運会社を設立し小樽、稚内間定期航路を開始した。これが要吉をして小樽、ひいては北海道の海運のパイオニアの勲章的呼称をあたえる‶壮挙〟になるのだが、天塩、北見国の漁業家、商人が運輸交通の不便をなげいて小樽の有力者に協力を求めて来たのに対し、要吉が『よいしゃ、俺にまかしときィ』(ズーズーべんの彼がこういう軽妙な語り口を持つ訳もないが)と胸をたたいたという説は、過剰美談創作のきらいがあるようだ。

 彼はこの年にニシン漁場を開いた。そして翌年、渡辺兵四郎と共に僅か四十㌧の飛龍丸に乗って北見海岸にむかったが、暴風に逢着して生死の境界を彷徨した挙句カラフトに漂着したがこれは北見沖の漁田開発の踏査で、彼の海運事業への指向する底には漁業家としての立場…輸送の合理化のソロバン方策があった訳である。

 それが自分だけでなく同業者ひいては一般の人達の利益と一致したのだが、二十四年には和船を西洋型帆船に替え、二十七年十一月には初めて百六十七㌧の小樽丸を新造した。板谷が銀行から金を借りて五百㌧の船を買い魁益丸という欲深い名をつけて、郷土越後と小樽間の航路を開いたのもこのころである。

 

 要吉は更に北陸、下の関、神戸、大阪、そして樺太までコースを拡げたのは日露戦争後のこと。板谷の米山丸と弥彦丸は旅順港閉そくに参加して玉砕、その‶献身〟の見返りである補償金が彼を海運の覊王の座に就かせるキッカケとなった。要吉の場合隆盛丸と利尻丸が徴発され、横須賀鎮守府所属船として小樽港防備の一陣に加わっただけで、板谷のような軍国美談もなければ儲け話もない。

 要吉もふくめて小樽海運業者が有封に入った第一次世界大戦のころは、要吉の所有する船十三隻総トン数九千七百八㌧であった。最大の長幸丸が千六百六十八㌧で、その他はいづれも千トン未満の小型船にすぎない。

 それに対して板谷は七隻にとどまるが二千㌧足らずのチョイサン丸をのぞいて、いづれも三千トン台で、その強みが彼を檜舞台での大活躍を演じさせることになったのである。

 しかも板谷には生得のケチの美徳というバックボーンがあった。側近にも恵まれている。したがって『唯一の楽しみは札を数えること』『自宅に座敷牢をもうけ、そこで数えた札を前において後ずさりしているうちに二階のハシゴ段からころがりおちた』(大宅壮一北海道、日本のアメリカ)云々の巷談も生れてきた。海運のほかに金貸海陸物産委託販売、醸造、漁業、農業、保険、倉庫、銀行と、儲かる事業には何でも投資してひたすら蓄財した。

 

 要吉は海運、漁業のほか、冒頭に記した通り農業に手を染めまた船舶用の鉄工所を経営してニシン沖揚機の考案で好評を得たり、十数棟の石造倉庫を建立して倉庫業界の盛賑に大きい比重を見せた。更に保険業もしたりして多角経営に熱心であったのは板谷と変りがない。小樽市金満名簿(請認クラブ昭六新年号)によると一位五千万円の板谷の十分の一にすぎないがそれでも二位の長者ぶりであった。同時に多額納税では一万千九百二十円で三位(一位板谷、二位木村円吉)。たしかに彼には小樽ビック・ツーたる富裕の一時代があったが、時世の推移を洞察して資力を効果的に回転する板谷伝統の商略はなく、かつ後継者にも恵まれず、ついに今日まで命脈を伝えることは出来なかったのである。

 しかし東宮殿下(後の大正天皇)行啓の際(明治四十四年)大枚三万円で旅邸を建立し、ついで公会堂として小樽区に寄附したり、小樽高商設立の二十万円の大金拠出には金子元三郎達と共に心意気をみせたことや、大正七年の開道五十周年開拓功労彰には、山田吉兵衛、船木忠郎、渡辺兵四郎とともにその栄光に浴したことなどは‶死しても名を残した〟好見本になるだろう。藤山駅という名前とともに……。

~小樽豪商列伝(11)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より

東宮殿下御旅館小樽公會堂

藤山要吉邸

上記二枚の写真は、

より