寿原弥平次 英太郎父子

2020年05月12日

 〇井 今井の傍系会社〇二 藤武良は〇井を今日にあらしめた創業の三兄弟藤七、武七、良七の名をかたどったものである。まさに毛利家の家訓を地でゆく三矢体制であるが、現在に見る‶寿原コンツェルン〟の発展も弥平次、猪之吉、重太郎さん兄弟の合力によるものといってよい。

 猪之吉がオコバチ川畔の堺町にモダンな英字看板を掲げて和洋小間物店を開いたのは明治二十二年の末であった。社長を九郎とする現在の寿原産業の創立はこの時に定めている。そしてさ十五年には入舟町の弥平司の店の向い側に移転して双方の店を二人で経営した。さらに末弟重太郎が来樽し、紋付きはかまの威儀を正した二、三十人の召使いの出迎えにキモを潰したのは二十七年。翌年から三十一年まで経営はトロイカ・システムをとった。

 この時代の成功のひとつにマッチの製軸がある。白楊原料のこの新興工業を指南する者は尠くなかったが、失敗する者も多く寿原家だけは強靭に耐えぬいた。猪之吉は一年間神戸の滝川製軸所を借りて自炊生活を続けながら自ら製軸し、それを神戸の各マッチ会社に売りさばくという熱心さであった。

 彼には‶お変さん〟つまり変り者という渾名があった。これはしばしば若い者の仲間に加わらず、専ら老商の成功譚に耳を傾けることが多かったからだ。けだし、クチコミによる成功法伝授である。

 菅傘売り時代から汽車、汽船など‶文明の利器〟を活用して当時の行商の慣習を破る先進さがあったが、彼の初仕入は雑貨三百四十円、品物は香油、化粧品、舶来雑貨、行李、鞄、ラシャ、洋品、時計、袋類など極めて広い範囲であった。

 そのなかに〈昂奮ブランデー〉というのがある。効能書には〈多年ノ研究ヲ経テ発明シ最モ有効ナル強壮健胃昂奮ノ諸薬配味…〉云々とあるから、当時のブランデーは薬品とみなされていたらしい。

 三人時代には寿原商店は陶器部と小間物部に分れ、出資は弥平司七千三百六十六円四十三銭五厘。猪之吉六千三百五十一円九銭。重太郎一千円。この出資金に年一割の金利と諸経費をのぞいて残額を平等に三分する取りきめであった。重太郎の発案で小樽商界初の複式簿記を採用したのもこのころである。

 取扱品に煙草、缶詰、石鹸、口紅、白粉などの舶来品を加え店の内部が狭くなり、小間物部は港町の巻淵商店跡に移転する程の隆盛ぶりをみせたが、販路は天北、離島、そして幌内夕張、歌志内など内陸部の鉱山地帯にも及んだ。明治二十九年旭川師団開設と共に支店の上川屋一〇寿原商店を開いてこれも繁昌。二人時代の売上の四倍に達する伸びとなった。

 三十一年正月。弥平司が瀬戸物、猪之吉が小間物、重太郎が洋品と缶詰という土台に分離営業することになり、純利は公平に三分して不動産は本家三、猪之吉二、重太郎一の割合で引きとった。

 

 弥平次の父弥平司は~前号でのべた通り、会津戦争の際よろいかぶとのものものしいいでたちで菅笠を売ったという卓抜したアイデアマンであったが、ちょっとした紀文大尽で、儲けた金を土地の福岡から程近い石動で派手に散財したというような一面もあった。こうした派手さは血の結がらない養子の猪之吉にもないではない。ただ金財を家の普請、庭園づくり、骨董品漁りといった方面に費やすくらいで、ありようはがめつく儲けるために日々ストイックな生活を送る、シブチン型の商人ではなかったのである。

 彼がものした家訓には〈金銭ハ一厘一毛モおろそかニスベカラズ〉〈無益ノコトハ決シテ財嚢ノ口ヲ開クべカラズ〉とあるが、俳号を一瓢と称する風流人の猪之吉は所詮‶近代人〟であった。

 

 明治三十七年七月煙草専売法施行。これによって民間手持の煙草が暴騰して猪之吉は悦に入った。しかし万事好調という訳でもない。余市の野口捨吉の奨めで三十二年に着手した積丹のアワビ、利尻のカニ、北見のサケマス、四十二年のカラフトのカニなどの缶詰工場などはいずれも敗退している。もっとも〈日魯が後年拡げた北洋漁業は、寿原の先駆にヒントを得たといえぬことはない〉(奥田二郎)という見方もあるのだが…。

 猪之吉‐英太郎の店が合名会社になったのは大正元年。大正三年発行の棟方虎夫著〈小樽〉には〈屋号を一〇という同社は区内色内町に本店を置き、入舟町に支店を新設し、全道及樺太各地にあまたの取引店を有する区内有力の卸問屋である。本店は和洋小物、文房具卸商を専一に、支店はメリヤス、帽子、洋物雑貨の小売であるが、品質の撰良は常に時流をおひ、価格亦た廉、営業為に甚だ盛大である。資本金五万円〉とある。

 

英太郎が池田静枝との婚姻を終えたのが明治四十一年。猪之吉はその翌年まだ四十才の働き盛りであったが夫人よしえと共に金沢に隠退した。

 猪之吉の英太郎へのしつけは厳格であった。英太郎は生れつき左手づかいであったが、三才の時父はその左手に袋をかぶせ針金でしばったという。英太郎が隣家からもらった金平糖を飽食して、余りを溝に捨ててしまった。怒った猪之吉は子の着物をまくりあげ、地べたにはわせそれを拾わせたというスパルタ式であった。

 英太郎は金沢一中卒業後東京高商に入学したから、叔父重太郎の後輩になる。そして三期先輩には山本厚三がいた。

 大正を迎えると防寒ものに重点をおき、セーター、毛オーバー、裏毛メリヤス、そして北海道にベンチコートを普及させたりした。大正二年、洋酒、缶詰、ネッスルミルクを重太郎にゆずり、三年には英国リバー社の石鹸を貨車動員によって仕入れる大仕掛けの商いであった。ミツワ石鹸の北海道代理店を、小樽の梅屋、中松を初め凾館、札幌の名商店と争って権利を得たのもまた福助足袋の売りさばきに着手したのもこのころである。

 彼が市会議員に当選したのは昭和五年十月。時に四十才。そのころ夫人との間には子が無く石川県大聖寺出身の九郎が養子として入籍していた。九郎は大正十三年に小樽高商を卒えて三井銀行の外国営業部に勤めた。同期の小林多喜二は拓銀の小樽支店に入ったのである。そして伊藤整は一期後輩であった。

 英太郎かが市議から一飛びして衆議院選挙に当選したのは昭和七年。この時轡を並べて金的を射たのは既に三期をつとめた山本厚三であった。またこの年には板谷宮吉、金子元三郎が多額納税貴族院議員に当選、そしてかっての区長、道会議長の大物渡辺兵四郎が没した。前年渡米した英太郎は、‶陣笠〟でありながらいち早く欧州視察議員団の一人として渡欧するというラッキーボーイであった。

 

 戦後は福岡幸吉の後を継いで昭和二十二年四月日本自由党から二〇七七六票の応援で市長に当選、二十六年六月まで勤めたがこの時対抗したのは民主党の秋山常吉であり、保守二大政党の激突として大いに注目された。ライバル山本は戦争中の翼賛議員を経、二十年十月の進歩党結成と共に松浦周太郎、手代木隆吉、南条徳男達とはせ参じたが、パージされて死去、その遺鉢を継いだのが昨年志半ばにして世を去った椎熊三郎である。

 一方九郎はどういうコースをたどったか。重太郎、英太郎が無尽会社の事業に着手してから三井を辞した。これが昭和九年で二十一年には北洋相互の監査役、そして二十三年十月にその社長となったのである。

 

 北洋相互が本陣を小樽から札幌に移したのは二十年四月。そして相互銀行法の営業免許をうけたのは二十六年一月であった。九郎はいま八十数店を擁する資本金六億の同社の社長、そして三十二年には全国相互銀行協会会長。しかし小樽に居を構え、繊維品の寿原産業と化粧品、薬品の寿原薬粧の社長として小樽との紐帯は固い。

 九郎と共に現在の‶寿原コンツェルン〟の双璧となる外吉は弥平次の娘かのの婿であった純一郎の娘、ハツエの婿として大正九年酒井から入籍した。血よりも能力を尊ぶ寿原家の流儀に沿った訳である。

 

 純一郎は弥平次の同郷。慶応でのインテリで明治三十九年から弥平次の陶器店を手伝った人だ。外吉は創業明治十六年即ち弥平次の手になる寿原商店と寿原農場の社長として、小樽商工会議所会頭の重職にあったが、昨年十一月木村円吉にバトンを渡した。円吉は明治七年に小樽に進出し土地、金融で全道有数の富豪と称されるに至った人の二代目である。

 

 英太郎の余技は宝生流の謡曲また書道にいそしんで、号を静曇と称した。弥平次、重太郎は義太夫、そして九郎は絵をたしなみ、某経済雑誌に毎号表紙絵を画くなど、玄人並みの技倆である。

~小樽豪商列伝(13)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より