室蘭の樽僑 板谷順助

2020年05月16日

 北海道の海運界の双璧であった板谷宮吉と栗林五朔は共に新潟県人である。宮吉が出郷したのは若冠十四才の時。松前福山を踏台にして小樽でささやかながら暖簾を陽げたのは明治十五年、時に二十七才であった。

 そこころ五朔は何処で何をしていたろうか。後に日本石油社長となった橋本三郎達と新潟の文部省立英語学科で学んだ後、漢学塾青我学舎に入ってイモをかじりながら憂国慨世の気焰をあげている。二代目宮吉の真吉が、呱々の声をあげた明治十八年には不平鬱屈たる月給取。彼の勤めた新潟物産は海の覇王岩崎弥太郎の北陸に於ける基地であった。

 油蠟会社の後始末のために凾館に渡り、室蘭に転じて味噌、醬油などを商う店を開いたのは二十七才。そして翌二十六年には蛯子源吉と共同で室蘭運輸合名会社をせつりつして、五朔海運一代記の序章を記したが、宮吉も五百㌧の船を購入して新潟県下諸港との定期航路に乗り出している。ここで二人は同出発点に立ち、海の板谷、栗林をめざして豪快なダービーに出場することになるのだ。

 星霜は移る。宮吉が不帰の人となったのは大正十三年五月十三日。……といえば五朔は、三日前の開票によって二代目の代議士の金的を得、急霰の拍手を浴びてよくぞ男に生れける…の欣快の有様であった。しかし三年後の昭和二年五月には彼もまた逝きて還らず。これは宮吉の銅像完成の一ヵ月前であった。

 ところが室蘭町議、道議、道会議長、衆議と五朔が着実に付植した政治的地盤を、そっくりそのまま頂戴した他所者がいた。それが宮吉の甥順助である。

 

 順助は明治十年七月、新潟縣刈羽郡比角村の素封家山田家に生れた。慶応理財科を卒えた明治三十年には、宮吉の懇望で宮吉の亡兄常吉の養子となり叔父甥の縁を結んだ。小樽に来たのは二十六才、宮吉は既に個人営業から板谷合名会社に成長し、二千㌧級の汽船を操って支那豪州に海産物を送りこんでいたのである。

 ‶新宅様〟順助が手を染めた仕事は、この年に購入した永山三百五十町歩の土地の開墾管理でこれが彼の後の大日本農政会、蚕絲会副会長、道農友会会長のポジションにつらなる起点となる。引き続く日露戦争によって船成金の萌牙をみせた宮吉は、明治末年板谷商船株式会社に改組、同じく南洋郵便組、大正五年には樺太銀行…こうした雪達摩式の発展過程で、順助は別段自分の才幹を発揮することなくひたすらワンマン宮吉の臨使に甘んじた。

 四時間睡眠を鉄則として働く宮吉は順助に『黙ってわしの真似をしておればいい』と云うだけ。しかし大正七年二中風で倒れ、早稲田出身の真吉が陣頭に立ち副社長順助はよく補けた。互いに相手の立場を尊重して円満な早慶戦であったという。

 順助が板谷コンツェルンの力をバックに始めた仕事には交通事業が目立つ。即ち沙流軌道(佐留太―平取)が大正十一年渡凾海岸鉄道(森―砂原)が昭和二年。洞爺湖電鉄(虻田―洞爺)が昭和四年。更に勇払電気、沙流電灯等がある。これらの交通網は戦時統合で、徳中祐渇の道南乗合自動車(現道南バス)に吸収されてしまったが、順助の領域が道南にあったことに注目しなければならない。彼の前半の政治歴は、室蘭を本拠とした上で培養されたのであるから以上の事業と政治生活を分離して考える事は出来ないようだ。

 大正末期。順助は既に五朔の後をうけて栗林商会の社長となっていた徳一と共同して、本輪西海岸の埋立事業を計画した。ところが土地会社によって埋立地を企業体に分譲しようという順助の営利主義に対して、室蘭ッ子徳一は港湾の発展のために近代的海陸連絡設備を設けることを主張する。結局平行線で話合がつかず、順助はさっさと手を引いてしまった。

 板谷は世界大戦期の貸船でしこたま儲けたのに対し、持船僅か三菱の傭船本位の栗林は昂謄するチャーター料で大危機を招いていた直後の事だ。徳一は止むなく王子製紙にすがりついて室蘭土地埋立会社(現室蘭埠頭株式会社)を設立、辛うじて素志を貫くことが出来た。父の五朔は大正九年、十三年と引き続き衆院選挙に当選して、早くもその将来が嘱目され始めたころである。

 処が昭和二年の五月に突然腸チフスで急死したから、彼を擁していた室蘭同志会は狼狽した。この時ワンマン宮吉は既に亡く、ひたすら政界入りの野心を抱いていた順助は心に期するところがあった。六月十日には本部の市会議長今田房次郎立起せずと声明。順助は直ちに『乃公出ずれば…』と売りこみ、十一日には同志会で彼をかつぐのを決定した。投票日に先立つ二十二日前の喫緊の出来事である。

 こうして順助は七月三日政友会公認として、五朔の宿敵憲政党の岡本幹輔を五九伍票対四一〇票で打破することが出来た。

 『埋立では金儲けのことばっかし考え、その上に先代の地盤を…』徳一と家の子郎党と順助の感情の海は埋めるすべもなかった。

 順助はツイていた。昭和三年二月の第一回普通選挙では最高点、五年二月には前回落選の手代木隆吉に続いて二位で当選した。昭和七年六月には再び最高点でゴールイン。斎藤実内閣の下で鉄道参与官に任命されまさに得意の絶頂である。

 この時の鉄道相は名寄、朱鞠内線の新路線計画にまつわる黒い霧で野党につき上げられた三土忠造。前の犬養内閣時代には逓信相で海事審議会会長を兼任していた。この時は板谷商船代表として徳一と共に委員となっており、爾来三土の知遇を得ることになる。このころの順助は持てる選良として羽ぶりが良かった。〈話〉という雑誌の昭和九年十二月号によると、八年度各界名士所得番付の代議士篇では前頭二枚目。一方二代目宮吉は〈日本経営百年史〉の全国金満家番付で前頭十一枚目。二人の金豪を持つ板谷コンツェルンは超努級戦艦の威力があった。

 ところでこの昭和七年の選挙では、新人南条徳男が名乗りをあげた。南条は政友会の法曹院外団で五年八月には順助と室蘭政友クラブを発足させ、順助の一の子分といった立場。それが静かなるクーデターをおこして立候補したのである。しかしこの‶出る釘〟は順助によって打たれる破目となってしまった。その後は番狂いとなる。二・二六事件前夜の十一年二月の第十九回選挙では順助が落選、南条が当選という思いがけない結果となったのだ。これで室蘭は五朔に次ぐ地元代議士を十三年ぶりで送り出したことになる。但し当選の深沢吉平が選挙違反の連座で失格し、次点の順助が繰上げ当選という結果になったが。

 子分にしてやられた順助の屈辱は計り知れなかった。南条は戦後の石橋、第一次岸内閣で建設相、第一次池田内閣時の農林相として台閣に列したが、現在は落目の藤山愛一郎の世話役として精彩に乏しい。

 順助は室蘭を棄てて小樽に転進することになった。当時の小樽市長はいとこの宮吉。そして市政の枢要は政友会の旗幟を翻す昭和会で固められていて心強い。かくして宿命のライバル山本厚三と対決することになる。。山本は民政党道支部長。順助は『それならば吾輩も…』と政友会支部長のポストを望んだが木下成田郎御大が頑張っている限りその望みはかなえられそうもなかった。

 やがて十二年四月。林銑十郎首班の軍官内閣下の総選挙では山本一九一一八票、順助一七一二一票で当選。色褪せてゆく国会の群像に列することが出来たのである。

 それから内閣は六回も交代し太平洋戦争が勃発した。十七年四月の翼賛選挙では山本、南条達はこの官制選挙で当選したが身を引いた順助は賢明であった。戦後追放令をくった山本は失意の裡に世を去ったが、順助はなお残存していた貴族院議員となったのだ。この時任命制の勅選議員は順助と町村敬貢。そして多額納税議員は宮吉と伊藤組二代目の伊藤豊次であった。

 宮吉と栗林徳一が争ったのは昭和十四年九月の多額納税貴族院議員選挙。二百余の金持選挙人による投票の結果古顔の政友会宮吉は七十五票で落選、一方新顔の中立徳一は堂々百八十四票と大差で当選したのである。そして徳一は二十一年二辞任しその補欠で伊藤が当選した。このころの順助は万事一言居士で、とかく貴族院の殿様方には敬遠されたという。

 二十二年四月二十日。新憲法による第一回参議院議員選挙では地方区八名の議席を狙って十九名が争った。自由党候補の順助は七七〇〇四票でトップで当選。これに同じ自由党の堀末治が続いた。議会では運輸・交通委員長で自由党長老格。また自由党が自由民主党に延長されるや同党北海道支部長として、山本をの衣鉢を継ぐ心身の民主党椎熊三郎と対峙したのである。なお彼は日本船主協会長の重職にあった。

 質問演説では常にトップバッターとなったが『間口の広さに比べて実行力少なし』『熟慮断行型というよりも直感型』云々が当時の寸評。また二十四年には‶日本のホープ〟北海道の開発プログラム立案のために北海道開発審議委員会がたんじょうしたが会長が順助で、こうした‶有終の美〟を飾った彼が東京桜田会館で急逝したのはで二十四年十二月未明。享年七十三才であった。

 現在北の誉香蘭会長の小林秀光は順助の娘栄子の夫。彼もまた慶応理財科の出で昭和七、八年ころから室蘭商工界のエースとして頭角を現した。小林酒造は戦前統合の室蘭酒造を経て戦後に香蘭酒造となり、三十七年十月に小樽北の誉と合併したのである。こうしてみると政経の両地盤のみならず、娘の婿まで掴んだ順助は名実共に‶室蘭の樽僑〟であったと云えそうである。

~小樽豪商列伝(16)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より