事業の鬼 寺田省帰

2020年05月22日

 明治の小樽の電気企業の系列は小樽電燈舎(明二七)―小樽電燈合資会社(明四〇)―小樽電気株式会社(明四四)ということになる。

 日露戦争を契機に急速に膨張した日本の産業資本は、動力用電気の需要増大を訴え、それに併い電力業はランニング・コストの高い火力発電方式から水力発電に転換していった。この‶水主火従〟の原型が、ようやく具体的な実像をみせ始めたのは明治四十年前後、そして小樽にこの水力発電がお目見えしたのは‶栄光ある明治〟の晩年四十四年の十一月十八日であった。

 この電力源は王子製紙苫小牧工場附属の千才発電所である。王子製紙と折衝に当ったのがわが寺田省帰。相手の鈴木梅四郎専務は名だたる剛直な実業家だけあって「うちは紙を作る会社であって電気なんかを売るところじゃない。お前さんの方で欲しけりゃ勝手に取りにくるがいい」と事もなげに言放った。

 ところが役者が一枚上の省帰は「ハイ、それならばお言葉に甘えて…」と引き下がったが、三十五万円の巨費を投じて延々八十九㌔の長距離電送線を架設してしまった。これは先に完成した桂川・東京間の八十㌔より上廻り、日本最長の送電線となったのである。

 いかにも明治時代らしく細事をかえりみない豪放な取引であったが、しかし鈴木から‶製紙王〟藤原銀次郎に代ってからの王子製紙の道はなお荊刺の道程であった。結局曲面を打開するため札幌に‶電気を売る〟方策をとることになる。この時の軍使が後の王子社長、現日本商工会議会頭足立正。省帰に三拝九拝して工費と同額の三十五万円で送電線を買いあげた。

 こうして省帰は小樽電気の専務。そして昭和四年に王子製紙の系列に入った北海水力電気では、王子製紙に迫る大株主である板谷宮吉や北の誉の野口喜一郎と共に取締役に就いた。時の社長こそ藤原であった。

 

 省帰のふり出しは教師である。後年小樽で私立中学校教育学校を設立したり、政争を超えて金子元三郎達と小樽高商実現のために奔走したりした。これは彼の精神構造のなかに一点凝結していた修身育家への祈りの情熱であったのかもしれない。彼は安政四年四月、荻埠県相馬郡井野村で百姓家業をしていた伊兵衛の長男に生れた。明治十年千葉県師範学校を卒業し千葉、山形県下の教員となったが、中等教育の免許を得て日本最初の女学校であった京都府立高女の教諭兼京都府属となったのが十七年である。この時親交を結んだのが府学務課長、後に府立高女校長に転じた河原一郎、即ち直孝の父。直孝は後に省帰の招きで来樽して小樽銀行を経て小樽電燈の支配人になるのだ。

 また後に北海道長官にとなった京都府知事北垣国道の知遇を得たのもこのころで、このころがそれからの省帰の人生コースに決定的な指針を与えることになる。

 鋭鉾並々ならぬ一匹狼であった彼は同僚との折合が悪くて遂に仕途を辞してしまった。ところが明治二十五年七月、北垣が内政次官から道長官に転づるに至って省帰はそのふところに飛びこんだ。

 幕末に於ける北垣の志士としての活動は、生野の挙兵で正史に一章を飾っている。山岡鉄舟流の練達者で後には大日本武徳会長。明治四年から三年間、権判官として開拓使に出仕したことがあった。そのころ同僚の榎本武揚と語らって五円宛出しあい小樽の二十万坪の土地を購入した。そのうち半分は有耶無耶になってしまったが、これが思いもよらぬ拾いもので榎本如きは明治十四年ころ月千円の地代が入り、時の新聞にやゆされた程である。

 その土地は現在の稲穂町一帯で南は妙見川、北は石山に及ぶ広大なもの。最初の管理人は元京都口廻組の剣士で五稜郭時代榎本の近習であった大塚賀久治それが省帰に代り彼が土地管理の北辰社を差配することになった。明治三十年には丘陵を拓き谷地や沼沢を埋め、三十二年には街区を改正して土地をならし今日の稲穂町の骨格二百五〇万円で一切の権利を木材商の岩田三平に売却した。

 ところで北垣は京都時代、琵琶湖の水を京都に流通させるいわゆるインクラインの大事業をおこし、日本水力発電第一号たらしめた気骨稜々の業績を残している。百万奔走して百二十五万円の巨費を調達し、そのために名をもじった‶こんどきた我鬼極道〟というような怨嗟もうけた。この工事は後に女婿となった若冠二十三才の工学士田辺朔郎が当ったが、田辺は道庁鉄道敷設部技師として北海道の鉄道敷設計画を築いた人だ。退官後の北垣は北海道鉄道株式会社社長として女婿の青写真の実現に努力し、小樽区ではその功績を賛仰して大正七年十月、小樽公園嵐山に銅像を建立したが戦時供出で今は見ることも出来ない。

 省帰の送電線架設の放胆な事業は、おそらく北垣によって觸発されたのではないだろうか。一方は長距離送電で一方は水力発電。共に日本電業史にエポックを画した。これは‶同声相応じ同気相求む〟の呼吸交合にはかならない。

 彼は小樽政界では政友会系の謀将であるとの評価が下されている。明治三十二から区会議員として区制に牛耳をとり、また大正九年から政友会北海道支部長として巾を利かせた。港湾有水面埋立問題では運河式を主張して反対派を制圧したかと思えば、道庁庁舎全焼の際の旭川移転問題では、小樽の札幌援護の世論を集約して反対運動に立ったりする。首長の人選では絶えずリードをとった。

 まづ第四代区長龍岡信熊(元凾館支庁長・明四二・八―四五・二)の選考委員。五代渡辺兵四郎(明四五・三―大五・二)及び六代永井金次郎(大六・一―大八・四)決定の選考委員長であった。この時彼は俵孫一道長官や久保田内務部長を、井上東京府知事に働きかけたが紆余曲折があり、やっと気脈相通ずる元高知県知事政友会系の永井を導入した。永井は後に樺太庁長官となった大者。

 永井の次が最後の区長となった元沖縄県知事の大味久五郎。彼は省帰の反対洵派政党の系の革新クラブの支持を得た続いて佐柳藤太、木田川奎彦の順になるが民政系(元憲政)の木田川が二期勤めると次期市長の決定をめぐって政友系の昭和会と革新クラブは激しく対立した。遂には道庁地方監督官の阿部平三が職務管掌に任ぜられるという破目に陥ったが、省帰は外には政友会道支部長の今太閤木下成田郎や杉江仙次郎、森正則といった昭和会の猛者とチームを組んで、自派である貴族院議員板谷宮吉のかつぎ出しに成功して凱歌をあげることが出来た。

 板谷を名誉市長ということにして、助役は本道出身で警察官出の前香川知事土居通次を迎えた。昭和会は市会正副議長、商工会議所会頭などの要権を独占して吾世の春を謳歌したが、昭和八年十二月から四年間勤めた板谷は、省帰とは縁の深い市会議長であった河原直孝にゆずった。土居は室蘭市長へ。また河原の時の助役は福岡幸吉で元室蘭市長。省帰は「矢張り室蘭と小樽では格が違うわい」としきりに悦に入った。

 また省帰は政友会を脱党して政友本党を結成した床次竹三郎の復帰の使者となったり、木下東武、中西六三郎など道政友会の大者の潤滑油を勤めたりその存在たるや端俔すべからざるものがあった。

 しかし彼は常に黒幕に一貫した訳でもない。

 大正六年四月の衆議院選挙では憲政の金子元三郎と対決したが敗北。しかし検挙者五七〇名の驚倒すべき非公民選挙で金子が失格し、棚からボタ餅を得た。しかし彼の幕僚小町谷純も検束された甚だ不名誉の金バッジであった。この時彼は自派の言論機関の樹立を痛感し数万円を投じて北門日報を創刊した。スタッフは杉本良吉と共に赤いロシアに越境した岡田嘉子の父耕平、後志支庁第二課長であった山内信弥、後に福山町長となった松本隆など。しかし民政党の山本厚三の息のかかった小樽新聞には歯がたたず、数年で衰退の道をたどった。

 大正九年三月の総選挙では気鋭の山本厚三と対戦したが、山本三三三二票。省帰三三一三票。僅か十九票の差で惜敗した。

 省帰は前記した如く、小樽電気、北海水力電、旭川電気、そして小樽銀行(後北海道商工銀行)の創立。製油株式会社専務、遠藤又兵衛社長の、小樽貨物火災保険株式会社取締役、映画館の電気館社長など多くの事業に驥足をひろげ商工会議所会頭もした。これが加茂儀一をして〈北海道の渋沢栄一〉(榎本武揚と語らしめるゆえんであるが、ある時道銀元頭取山口治作は事業の整理を勧告した時、血相を変えて「わしはこれからじゃ」と怒ったことすらあった。その不撓の事業家魂に、商工会議所会頭の磯野進が「渡辺兵四郎の頑固なのには驚くが、寺田はそれ以上だ」と述懐したこともある。

 しかし彼の帷幄の将堀川勘吾の存在も忘れてはならない。堀川は大分県出身で中央大学の前身東京法学院を出、小樽米穀取引所の専務理事となった。省帰の大番頭で商工会議所の副会頭もした。

 省帰は昭和五年市政功労者として、十七年に商工功労者として表彰された。また昭和十年の喜寿の宴には千名の参加者があったといわれ、けだし‶寺田のぢいさん〟の盛名を推して知るべしである。なおクリスチャンであり、小樽聖公会堂の塔屋建立に尽力したことはあまり知られていない。凡そ省帰のイメージとは程遠いからである。

~小樽豪商列伝(18)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より