妓楼番頭が出発点 早川両三

2020年05月23日

 そのころ中央では小樽をどのようにみていたのであろうか。次に掲げるのは朝野新聞の〈北海道後志通信〉(明一三・七・二一〉である。

 

 …家族を凡そ二千五百軒、人口は一万四千余にして(中略)石狩国札幌市府への要路に当り、漁業盛大の場所はすこふる繁昌なり(中略)、遠路は幅広く清潔なれども、漁業の多きが為に市街に依ては臭気鼻をうち小蠅甚だ多くの食物などに集りたる様は黒胡椒をふりかけたるが如し。妓楼は紺多町、入舟町合て二十五軒芸妓兼娼妓二百名ばかり、場代は上等金三円、下等二円、但し台付にて廻しなき規則なり。

 

 まさに小樽色街細見の感がある。しかし文中の紺多町は金曇町の誤り。このころの新聞には札幌薄野を鈴木野と書いているものもあり、所詮北海道は今なお化外の地程度のものであったらしい。

 小樽の色街の歴史は、幕末漁夫相手に春をひさぐ勝納、若竹の浜小屋から始まる。松浦武四郎は〈西蝦夷日記〉に蝦夷売春婦の異名を紹介したが、余市から小樽辺までは‶浜千鳥〟と呼ばれた。鷲の木の‶陣羽織〟落部の‶蒲脚巾〟知内の‶鼻曲り〟鮭熊石の‶新鱈〟等に較べては最上級といったところだ。

 明治に入ってから次第に本格化し、〈とに角明治十三、四年かけての金曇町は、所謂闇も月夜の全盛を極め、小樽繁華の中心をなせる〉(小樽・棟方虎夫)有様であった。ところがこのおたる色街の幼期のころ、一介の妓楼番頭として世に出、後に小樽商工界の一方の旗頭として牢固とした地位を築いた‶ハキ溜の鶴〟がいる。それが早川両三である。

 

 両三は弘化二年四月、越後新潟の百姓与四郎の二男に生れた。生家は一応羽振りが良かったが家を継ぐ身ではない彼は新潟港廻船問屋の番頭になった。商売柄海内諸港のウワサは厭応なしに耳に入ってくる。しかも新潟は北前船を媒介として遥かなる小樽都結ばれているではないか。

 ‶郷関ヲ出ヅ〟は越後男の本領とするところで両三もそのひそみにならって小樽に渡った。時に明治四年二十五歳の時である。

 初めての仕事は人夫。当座は力仕事で糊口の資を得た彼は所詮はそれに甘んずる男ではない。一転してある妓楼の番頭となった。これが彼の開運の緒となったのである。

 何しろ好景気であった。大まがきの丸辰などは、最盛期には一日三千円の収入があり、月に七百円も稼ぐという女さえいたから両三も結構身入りがり良かったらしい。とにかく明治十年十一月には入舟町の妓楼の主人となって、丸辰、南部屋、小林、丸七角屋などと競いあったからツイている。

 ところが十四年五月二十二日色街から出火して西南の風に煽られて忽ち五百八十五戸が焼失、開基以来の大火となってしまった。そのころ流行したのは〈かわい金曇町何して焼けた、寝てて金取ったその罰でばらっと焼けた〉という俗謡である。〈小樽市史〉では慶応元年五月の色街火事の際に唄われたと書き、同一書にこの十四年の時の唄であると書いている。これはいかなる意味であろうか。

 時あたかも明治大帝の来道を三ヶ月後にひかえて小樽は復興に大童。天晴れなのは開拓使。住の江町の一丁目から五丁目にかけて整地し、妓楼経営者に資金を貸して移転させた。後には返済無用という寛大な処置をとったのであるから、薄野創設前後の開拓使の色道奨励の気風はなお衰徴していなかったらしい。

 しかし両三はお上の御慈悲に頼って、妓楼経営だけに甘んずる男ではない。翌年には入舟町に茶、文房具などの雑貨屋を開いて‶よろず屋両三〟の鋒釯を現した。この支店は色内町にも設けられ、後日両三から経営の全面的委託を受けたのが森久道、即ち北海製紙社長久則の祖父である。続いて二十二年……といえば両三は既に岩四郎を養嗣子に迎えているが……精米所を開いた。そして北海道でも珍しかった亜麻油の製造、醤油の醸造といった風に商座は次第に広やかになっていった。

 かくて二十九年には小樽商業会議所第一期議員。好人物で時々脱線するが、あっさり自戒する磊落な彼の性格は、妓楼番頭上りの蔑視を解消して人気十分であった。

 商圏拡充は以上にとどまらない。倉庫業海陸産物商、蒸気機械業、米穀仲買人。会社の創立に参画しその重役の椅子に就いたものには、二十七年の株式会社小樽米穀取引所、三十年の小樽貨物保険株式会社等がある。町総代人から引き続いて区会議員もつとめ、三十二年には会長倉橋大介の女房役として小樽衛生組合副組合長、更に消防組頭……公職も彼を追いかけまわしてやまなかった。

 

 彼の多角経営人生で異彩を放ったものに見番がある。藤山要吉と共に小樽海運界の先駆者と称された麻里英三も見番を創めたことがあるが、両三が柳川、丸辰など妓楼の同業者と提携して住の江見番を発足させたのは明治十七年である。〈明治十七・八年の住の江町は宛ら黄金の花に埋れたらん如く、絵巻物にせま欲しき住吉神社祭礼の賑ひも皆花柳界の源泉で全市を湧きたたせた〉(小樽)ころである。しかしこの共同経営も呉越同舟で遂に沈没してしまった。

 明治二十九年四月二十七日色街第二の業火で七八戸が鳥有に帰した。当局では色街の入舟町奥への移転の方針をとったが、地の不利を楯にする業者は猛反対をし、結局諾して完了したのは三十三年。今日残っている柳京、弁天、羽衣の各町はその色街の名残りである。ところが既に諸事業が固まりつつあった。両三は水商売の足を洗い、一躍昂騰し始めた土地をねらって資本の投資を足元に見出したのである。

 小樽挙げての狂熱的な土地ブームはこの二十九年の春からで巻紙枚数に地番、坪数を記した売渡書を鷲掴みにしたブローカーが跋扈し、登録印刷代が一日に七千円に及んだ時もあったという。明治二十四年に坪最高二十円、、平均五円であったのが、五年後には三十円、二十円に暴騰したという凄まじさであった。二代目両三の昭和初期の職業が貸地となっているのも、早竟初代両三の‶子孫ノタメニ美山ヲ買ウ〟の賜物であろう。なお両三は黒松内、前田、留萌などで農場や牧場を経営した。

 一体両三は何時如何なる時にどのような商略を策して事業網を編んだのか、これは容易に推測のできないスーパーマンであった。しかも現在の小樽市立病院の前身である共立小樽施療所の設立に私財を投じ、その理事長役をつとめたりした。

 更に消防組頭は枯れにうってつけであったかもしれない。火事の町小樽の消防組の鼻祖は興行師星川龍蔵である。「火事だ‼」と云えば韋駄天の如く現場に直行したので巷間に駈けつけ組と呼ばれた。明治二十七年には新規則に基づいて小樽消防組が発足し、その組頭は艀業鈴木市次郎や浜名甚五郎等‶浜の遊侠〟の親分鈴木吉五郎。二代目は星川龍蔵。三代目が両三で三十九年からの任期である。

 彼の死後バトンは小樽公会堂、三井、第一、拓銀等を建立した加藤忠五郎に渡されたがこれらの火消人脈に一貫するものは、その前身なり現職業に講談浪曲的なムードが漂っているということであろう。

 

 名物男両三が他界したのは明治四十二年十一月で時に六十五歳。養子岩三郎が襲名した。二代目両三は安政四年‶鳥も通らぬ‶八丈島の生れである。明治二年文明開化の東京に出て商家に奉公し、ふとした機会に海によって活眼が開かれた。十年には船乗りになって凾館に渡り樺太に出漁したりしたが、小樽に来て回漕店も兼業していたキト旅館に奉公した。これは十三年五月である。

 ところで小樽の地理上の優越点を高く評価したのは、文化三年幕命によって西蝦夷を探検した近藤重蔵であった。しかし英雄の終着駅は悲惨の極みで牢死したが、その子富蔵は八丈に流刑となった。時代は転変し赦放されたのは岩三郎が小樽にきた三ヵ月前である。島時代に二人は疎通があったかどうか。これは知る由もない。

 キト旅館は凾館の谷太郎吉が経営していた。岩三郎が奉公していた時期の大番頭こそ、後に札幌の名代旅館山形屋を開いた大竹敬助である。大竹が札幌に出たのは明治十九年八月になるが、岩三郎は二十年十一月に早川家に入籍した。父の歿後は貸地貸金を中心とし、道銀、小樽貨物火災保険の重役を兼ね、小樽屈指の資産家として平穏な日を送った。昭和三年十二月歿。その子三代治は北大卒業後ドイツに留学、帰国してからサンデー毎日小説賞を獲得したりして嘱目されたが、代表作〈処女地〉の名は忘れ難い。彼は‶早川学校〟の優等生森正則が創立した北海製紙がその子久則の経営するに至って、重役に加わったこともあるが所詮は作家であり学舎であった。彼は祖父の商売はどう感じたであろうか。

 「二葉亭四迷だって中江兆民だって女郎屋の開業を本気になって考えていたんですよ」……これだとしたならばさしずめ三代治の〇晦になるが。

~小樽豪商列伝(19)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より