回漕と植樹と和歌 大竹作右衛門

2020年05月30日

 小樽と短歌といえば、私達は〈原始林〉を創った戸塚新太郎や〈新懇〉の織田観螢、そして並木凡平達の名前を想起するに違いない。ところがこれ等のスターの座を整理して小樽短歌史の名のもとに鳥瞰してみると、豊饒な文藻の水源はどうしても大竹作右衛門という一人の実業人に突き当ることになる。

 彼の短歌人として行動が集団活動に定着したのは興風会で、その活動の場は歌誌〈蝦夷〉であった。小田や戸塚はここから巣立ったのである。小樽文学運動史では、序章近い地点で鮮やかな光汒をみせてくれるのが作右衛門である。

 同時に彼は回漕業界の名門大竹回漕店の創始者として、また高野源之助の登竜のプルモーターとして、本編には欠くベからざる存在理由を持っているのだ。

 作右衛門は作右衛門は会津藩士武藤平右衛門の次男として、文政十一年四月に生れたが、同藩の大竹作右衛門の養子になった。文久二年八月には藩主松平容保は京都守護職に任ぜられるが、ここから昨今流行の京洛血斗史が一層興を添える事になる。作右衛門は主君に従って入京し公用人となった。平たく言えば外交役である。

 星霜は移る。会津藩が鳥羽伏見戦で薩長軍の征討に潰走するころ、作右衛門の姿は奥州仙台に現れた。有栖川宮を総督にいただく東征軍の進攻を前にして右せんか左せんかの曲折の結果三十三藩の奥羽北越同盟が結ばれたが、作右衛門は台風の眼の会津藩の立場で諸藩連合の周旋に奔走したのである。しかし大勢に抗する事も出来ず会津城は政府軍に包囲されてしまい、作右衛門の帰国の道は鎖されてしまった。止むなく幕府脱走軍の北上に投じて五稜郭に飛び、ここで会計方となった。そして政府軍来襲のため算盤を剣に替えて遊撃隊に加わった。

 

 明治三年三月には彦根藩での禁固生活から解放されたが、その間に得た結論は回漕業という大規模な事業を始める事である。それは神戸の在留ドイツ人レーマンから藩の名義で三百万円を借入れ、汽船鷲丸を購入して神戸・大阪間の定期航路を開いたのであるからスケールは大きい。

 このころ…三年には政府の肝入りで半民半官の回漕店が設立されたが、僅か一ヵ月で解散し三井との合作で回漕取扱所が生まれ、これが四年には郵便蒸気船会社となっている。 

 そして土佐藩から十一隻を譲りうけた岩崎弥太郎の三菱商会との間に、苛烈極まる競走のしのぎをけずっていた。勝犬土佐をスポンサーとする組と、親方日の丸勢との大相撲が華やかで所詮敗藩会津の作右衛門の事業は眼につきそうもない。ところがレーマンからの負債をめぐって、作右衛門と旧藩との間の雲行が険しくなった。これは作右衛門の私債なりと逃げるのが旧藩。確かに藩債のはずだと迫る作右衛門。とどのつまり政府が裁断する事になった。

 その結果負債は藩債。しかし鷲丸は政府没収という事になり作右衛門の言分は通ったが、本のもく阿弥になってしまったのである。

 これにより如何にせんか……作右衛門は思いを北海道にめぐらした。かっては榎本武揚や大鳥圭介達と過した北海道は作右衛門を招く。札幌では元京商人の木村万平が、開拓使の保護をうけて回漕業を営んでいたのだ。

 そのころ木村万平、伊坂市右衛門、渡辺長七の三人が、開拓使御用人として札幌の南一条東一丁目西角で宏壮な店舗を開いていた。当時の住民はこれを指して三店と呼んでいた。勿論すべての取扱品は内地から運送していたが、冬になると欠航が多い。しかも当時の小樽港は岸に氷が付着して陸揚が出来ず、価格は高騰した。儲けるためには危険も何のその。北陸系の商人達は上陸を止めなかった。そういう連中はチクサンとかザイワリと呼ばれたが、ザイワリとは岸の氷を割るとの意であろう。

 作右衛門は回漕店保任社頭取の木村の店に入った。開拓使から二十九隻の船舶を委託されていた木村は、思う存分儲けてはいたものの資金やりくりがばれて解散の憂目となり、翌八年三月には、御用達の金看板も取りあげられてしまったのである。

 しかし作右衛門にとっては独立独歩の好機会。彼は木村の失敗の跡をうけて色内町で大竹回漕店を始めた。支配人こそ鷲丸時代からの腹心高野源之助である。石狩航路の船が沈没したり家屋が火災に罹ったりして道は嶮しかったが幸いに小樽港の発展がめざましく損失は逐次解消されていった。

 

 明治十一年七月。開拓使では北海道の物産を露領ウラジオストークに輸出して、貿易を行う事を計画した。交渉に当ったのは小書記官鈴木大亮。例の開拓使官有物払下事件の渦中の男で後に農商務省商務局長、逓信次官となった薩摩藩閥の爪牙の官僚である。

 この時作右衛門は民間当事者の一員として、函館の豪商渡辺熊四郎達と行動を共にして一ヵ月にわたり巡遊した。小樽に歩をきざんで僅々三年。早くも実業界で地位を築きつつあった事を想像するのは難しくない。そして回漕店の全権を高野に譲ったのは明治十八年であった。

 高野が道議・衆議・そして商業会議所会頭等で名をなしたのは、この回漕事業をスプリング・ボートにした結実である。

 

 作右衛門は、出船入船の行き交い激しい港を遠望しながら述懐した。

 (三条公から元一の名をいただいてから最早八年になる。これからはこの商都に歌道の一筋を掘ってゆきたい……)

 遡る明治九年八月に、太政大臣三条実美が参議の寺島政則、山県有朋、伊藤博文を伴って北海道を視察している。小樽では開運町の斎藤喜五郎方に止宿したが、歓迎の一行と共に小樽八勝を選定した。その八勝は祝津夜雨、色内晴嵐、住吉秋月、朝里落雁等で、地元の八人がこれを和歌に託した。

 作右衛門は、全ねん小樽高島両軍の郷社に指定された住吉神社の秋月を次の如く詠じたのである。

  住の江の社の松の月かげは

   いく秋てらす光りならむ

 ちなみにそのころ隣りの札幌では、同じ会津藩の結城平佐衛門が和歌塾を開いてその月謝を糊口の資としていた。彼は八十九歳で他界するまで二百首を詠じたと云われ、薄野夜雨、発寒暮雪、琴似落雁、豊平橋夕照といった、札幌八景をつくっている。そのひとつ円山秋月は

  丸山の神のい垣のみたらしに

   光満ちぬる秋の夜の月

 どうやら秋の月は、神社からが佳景というのが相場であるらしい。

 作右衛門は住吉神社の神官星野実臣や実相寺利氏、稲垣穫達と和歌のグループ興風会を結成してその会長になった。明治二十五年一月のことである。札幌からも加盟者があるという盛況で三十二年には機関誌(蝦夷錦)を発行した。その版価は一部五銭。戸塚や小田はここから羽博たいたのである。

 最後に作右衛門の代表作一首これは勅題入選作である。

  山川のほかにちひろの河までも

   よりて仕うる御代にもあるかな

 

 次に植樹の先駆たる作右衛門を素描する。

 そのころ小樽の後背山地は、年々濫伐と野火で禿山化していた。作右衛門は嘆くことしきりであった。明治十一年に当局に対して植樹に関する意見を建議したが、十三年に至って自ら植樹を始めた。

 会津から杉の種子を取り寄せこれを播く。苗木をつくる。ふるさとの杉の子が亭々たる巨木となって天を圧する風景を想像すると、彼の胸は若者の如く弾んだ。杉の子七万本は、二年にわたって稲穂沢に植えられたが、これは残念ながらすべて枯死してしまった。彼の手になる杉は今日小樽一帯では見る事が出来ない。しかしその他黒松、カラマツなどは成功し、明治二十九年の道庁調査では、十一町四反の領域内のカラマツは六万本、黒松は七千本で、これが作右衛門の業績とされている。

 

 下って明治三十一年。道庁技師田中穰の提唱によって北海道造林合資会社の計画がうち出されると

、金子元三郎や倉橋大介達と共にその設立に心を砕く彼であった。

 また彼はこの明治十一年に、同じ会津藩出身で会津戦のみぎり奮戦して隻手となった松田一芥と、岩内老古内美で十万坪の牧場を経営した。松田は明治六年に札幌で初めて牛乳を販売したが、翌年五月から、オコバチ川畔で飼養した牛によって稲穂町で牛乳を売りさばいた。これも小樽では初めてである。後に作右衛門、松田達は大有社を組織し、その事業の一環として会津産朝鮮人参の道内栽培を計画した。

 この時招いた会津藩人参役所役人長谷川勝平は、後に幾多の会に関与し商業会議所副会頭となった直義の父である。

 作右衛門は明治三十六年九月十六日歿。七十六歳の長寿を全うした。子に恵まれず会津藩士であった松田俊蔵の四子多気を養嗣子としたが、その子は工学博士となった。

 

 彼が永眠する時、高野源之助は代議士の栄誉の座にあった。作右衛門の表情は安らかであったとされている。

~小樽豪商列伝(24)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より