開墾企業家 沼田喜三郎

2020年06月02日

 北海道の地名がの大宗がアイヌ語に依拠していることは云うまでもない。純然たる日本語を出典としている例は極めて尠いがいわんや人名になぞらった場合等は微々たるものだ。

 仁木は仁木竹吉。京極は京極高徳。北村は北村雄治。月形は月形潔。今金は今村藤次郎と金森石郎の混合といったところ。いずれもその土地の開基の鍬を打ちおろした人物の名である。関連して云えばこれら以上の如き独立行政区の例ではないが、小樽市の山田町は山田吉兵衛が明治十六年に私費を投じて、六三〇間の道路を開さくした事による。また留萌線の藤山駅なり留萌市の藤山は、藤山要吉が留萌原野を開拓し、北陸地方から八十三戸の小作人を移住させたからである。

 さて、雨竜郡沼田町の町名は小樽の豪商沼田喜三郎の偉業を偲ぶために命名された。従来、上北竜村と称されていたが隣接の北竜村とまぎらわしい意味合いもあって、沼田村と改称されたもの。これは大正十一年四月の事であった。

 もっとも北竜村にも字沼田という部落がある。この一帯が喜三郎の開拓の元標的地点に当るが、明治三十二年七月に雨竜村から分村して北竜戸長役場が発足し、更に大正三年に上北竜村が分村したのである。

 喜三郎は明治中期から長く北海道一の規模を誇った、精米の共成株式会社の創設者であった。更に製油業では、これまた北海道一であった北海製油会社の基を掘った人でもある。したがって北海道工業史の中に占めるその座は、決して無視する事は出来ない。しかし彼の真骨頂は荒蕉の大地を開いて、今日の空知穀倉一大拠点の町たらしめた事がふさわしい。

 

 喜三郎は天保五年三月、越中西砺波郡津沢の農家に生れた。砺波平野といえば全国に名だたる沃野である。しかし‶越中の鍋割月〟の諺をもつダークサイドもある事を忘れてはならない。産米は独占的な大商人に買占められ、岩瀬港や伏木港に集められて北海道や東北等に移出されてゆく。五反百姓たる者端境期の七月ともなれば、鍋を火にかけても入れるものすらない。これが悲しい諺の出典である。そして私達は大正七年に日本を震撼せしめた米騒動の震源地が、富山県の滑川である事を想起しなければならない。

 生まれながら貧困の苦渋をなめなければならなかった喜三郎は東京に出たり千葉や栃木で大工渡世を続けた。紺屋の徒弟になった。商家に住込んで精米の見習いをしたり、まさしく起伏重畳の流離譂である。しかも若干十三才から始まった下積の人生は不惑の四十を越しても止まるを知らなかった。その儘路上の石塊の如く朽ち果ててしまうのが世のならいである。

 ところが郷里に舞い戻って商家に奉公している時、主人が西南戦争後の物価の下落を当てこんで盛んに水田を買いあさり、貧民を雇って米作りして巨利を占めたことが彼に一大衝撃を与えた。

 彼は当時の北海道が稲作は皆無で、住民の主食米が越中や加賀、越後に頼っている事を熟知している。そしてそれが玄米であること、荷下ろし地は小樽港であること。この情報認識は、精米技術を身につけた喜三郎の去就に決断を与えた。

 こうして小樽に足を刻んだのは明治十五年。既に四十八才に達していたから‶笈を負いて〟とか‶青雲の志〟とかの修飾的な詞で彼の心情を規定することは空々しい。

 当時オコバチ川の上流には原始的な造りの水車がからからと廻っていた。それは精米用の水車である。喜三郎はその仲間入りをし、陋屋に起居して来る日も来る日もチャチな作業を続けたが、冬の凍結と夏の水涸れには余りにも無力なのが、北国の水車という動力である。

 

 (春夏秋冬動きを止めない水車…一体どんな代物だろうか)彼は沈思して水車の改良工夫に取組んだ。しかし発明とは案外さりげないところから生まれるものだ。彼のアイデアは格別に奇抜なものではない。定型を破って水を車輪の上からかけるという方法である。彼は思わず苦笑を洩らしたが、ここにもコロンブスの卵の一例があったのだ。

 やがて同郷の京坂与三太郎が来樽して彼に情誼をつくす。事業が次第に発展して資本金六万円の共成株式会社となったのは明治二十四年四月であった。当時の取締役の一人に、初代福山甚三郎の弟米吉の名も見えるのは興味深い。

 共成の奥沢、花園町の水車場には六十基、四十基の臼がおかれ六十人の従業員を擁していたが、同年九月の新水車場には五斗張りの臼百基を揃え、其水舎の直径は六㍍で日本一の大規模な機械であったといわれる。

 共成は小樽工業界がビックビジネスのナンバーワン。精米会社としても東京以北第一の規模を誇り、長い間二割乃至二割五分の株式配当を実施して好成績であった。札幌の札幌精米株式会社をも併合したが、時代の推移と共に経営権は塚島由太郎を経て寿原英太郎に移っていったのである。

 次に明治三十年七月、小樽製油株式会社の発足。これまた喜三郎や京坂の事業で菜種油の生産工場である。しかし業蹟香しからず三十六年二月に解散し、六月にはこれを継承した北海製油株式会社が誕生した。(昭和元年には植物油の産額参拾五万円殆んど北海製油株式会社の独占であった)(新撰北海道史)がその第一ランナーであった喜三郎の名を抹殺する事は出来ない。

 共成は二十四年四月。小樽製油が三十年七月。その間の六年は共成の隆昌の階梯時代であろう。しかし喜三郎はかねてから内に秘めていて「われ大いに為すあらん」の素願を、一刻も早く具顕したかった。それは内陸部の尨大な土地を開拓する事である。

 如何にして荒蕉の地を豊饒の地たらしむるか……喜三郎はこの大主題を前にして五十余の年輪の老いを忘れた。

 彼は雨竜の一帯を究竟の土地と考えた。

 過ぐる明治二十二年。元勲三条実美は県内にあたる大谷、戸田、菊亭、秋元、蜂須賀の五華族に檄を飛ばし、空前絶後の面積を持つ国有地の払い下げを受けた。これは現在の雨竜、新十津川、深川、妹背牛、一已、納内、北流、秩父別、沼田等を包む広大な地域である。

 しかし幾ばくもなく実美が死去して、この華族農地は分轄されてしまった。機を見た喜三郎は大谷光螢から千万坪を借り受ける事に成功した。この開墾進捗のために設立したのが資本金十万円の開墾委託株式会社。井尻静蔵、田口松太郎、笠松千太郎、佐々木静二、京坂与三太郎も集い寄り、発足は二十六年八月であった。

 そして富山県から百戸、続いて二百戸。それから後に入植した愛媛県の宮崎春次組も併せて三八〇戸が開墾に当った。隣接の蜂須賀農場から指導者を招き馬耕による洋式開墾を採用したのである。

 最初は麦、菜種、ソバ等を播き、本格稲作を開始したのは三年後であった。伐木は専門の山師が何十本もの大木に伐り目を入れておき、風上の一本を倒す。それが将棋倒しとなって次々に倒れてゆくから、その音は耳をつんざく。その倒木に火を放つ。開拓途上の北海道ならではの豪放極まりない伐木であった。

 小作人の主食はイモとカボチャでトウモロコシの引きわりや丸麦に二、三分の米を混ぜたのが上等食。多くは麦、粟、ヒエで白米は盆と正月だけであった。生産物は道なき道を通って滝川に運搬された。またまとめて小樽まで出荷したこともあった。

 こうして五ヵ年で三千八百町歩を開墾したが、その後道庁から正式に土地の付与を受けた。水田は手稲西野から早生種の籾を買って来て、それが今日の石狩平野の穀倉地帯に発展したのである。土地は一部は大谷に他は小作、地主、一般に転売され、目的を達した開墾委託会社は拍手に包まれて解散したが、喜三郎はなおも土地の上昇線と共に歩んだ。

 留萌、深川間の鉄道敷設は二十二帝国議会で決定し、四十年二月に起工。四十三年十一月二十三日に開駅されたが、留萌駅から三つ目の駅には沼田駅と命名されたのである。これは地名よりも一足早く、後に上越線に同名駅が生まれたので石狩沼田駅と改名した。大正十三年四月であった。

 

 喜三郎はもとより教養などはなかったが、頭脳がシャープで生産力に富んでいた。観察力と読みの深さが群を抜いていたと云われる。沼田は冬は札幌より五度寒いが、夏は五度高いから稲作は可能と判断した、生得の感の鋭さ。しかし「俺は酒は少しもやらなんだが、酒の事はよう判る。いまに一升一円になって酒飲みが増え不身持が出てくるぞ」とか「畳には近く税金がかかるから、今のうちに畳を止めたらいい」と云った警抜的な言行を吐く人物でもあった。

 村に農民集会用の施設を設けたり、神社や寺院の造営への私財の醵出。また木工所、精米所亜麻工場の設置。中頓別、美深の製材所など多角的な事業網をめぐらした。首尾一貫して辺幅を飾らぬ質素な生活を続け、大正十一年十二月即ち沼田村という地名が生れた。一年後に、九十二才の長寿でその曇後晴の人生天気図をとざしたのである。

~小樽豪商列伝(25)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より