艀の国士 中谷宇吉

2020年06月06日

 

  空も港も夜は晴れて

  月に影増す船の影

  艀の通いにぎやかに

  寄せくる波もこがねなり

 この文部省唱歌は明治十九年に創られたものである。たしかに艀は長きにわたって小樽港の風物詩の一章を飾る存在であった。〈港湾労働〉(道庁総研)という専門書では〈…岸壁埠頭が充実せず、あるいは無く、船舶は、沖合に碇泊して手漕ぎの小型船舶ははそけによって陸上へ貨物を贈るかおくられるかする外なかった。この時代は従って艀業者が全盛を誇った時期である。港湾業者の発祥が、艀業者であるというのは、この理由による〉と述べ、小樽の業者は〈その殷脤ぶりは非常なものだといわれる〉とも書いている。

 蛇足を付け加えるならば、港湾作業のニコヨンを指して風太郎と呼ぶのは広く知られているが、室蘭では麻袋(どんごろし)といわれ、小樽ではゴモと呼ばれていた。ゴモゴモと不平口説を並べたてるからという説。鷗の如く港に群集するからという説。ゴム紐状をした薄汚い海草ゴモのような恰好をしているからという説。出典はさまざまであるようだ。

 艀業者が前近代的な仕組みと分ちがたく結びついていたのは三度も映画化された日野葦平の〈花と竜〉にも明らかである。浜名甚五郎などはその気風の代表的人であろう。しかし中谷宇吉となると道会議員もつとめ、朝鮮独立の志士金王揚や朴孝のシンパとしてこれを援け、さらに日清戦争後の挑戦のクーデターの渦中に飛びこんだりして驥足のスケールが巨きかった。彼が‶アジアはひとつ〟の汎東洋主義の開眼をなしたかどうかそういう思想性の裏付けはさておき、宇吉はやはり小樽豪商銘々伝では、異彩を放つ存在であったことはたしかである。

 彼は慶応三年四月阿波徳島県に生まれた。幼名は乾(いぬい)平太郎。八歳の時に同郷の商人中谷宇吉の養嗣子になったが、父は明治十四年に小樽に渡って運漕業を始めた。そして彼が父の許に来たのは十八年、十九歳のときである。

 このころの小樽港は広井勇博士による港湾造成調査以前で、明治十三年に構築された四百㍍の手宮木造桟橋がある程度。各種の貨物の積み卸は艀によって行なわれた。二十二年父の死亡によって家督を継いで襲名、そして二十四年には小樽運漕業の取締人となったから並の凡器ではない。ちなみに明治二十一年の業者は三十七、そして艀の数は四十六隻であったが三十一年には小樽乗用艀合名会社の社長に就任して活躍にはめざましいものがあった。

 三十四年には小樽生魚株式会社の取締役。しかしこの会社はほどなく傾き、稲葉林之助の小樽集鱗や寿原重太郎の小樽市場に奪回されてしまった。

 三十八年三月。といえば奉天開戦の緊張期に当るが、宇吉は支那に赴いて戦時視察をし、また樺太南部が日本軍によって軍政が施かれるや樺太に飛び、大泊港で運漕業を開いたり時流を見る眼は敏であった。翌年五月樺太の鈴谷川流域を探検し、樺太陸軍守備司令官から河川調査の委嘱を受け、この年真岡でも運漕業を開いているから政商たるの器の感が無いでもない。なお三十八年には北陸汽船合資会社理事後に理事長。四十三年には樺太汽船合資会社社長。彼の行動半径が小樽から樺太まで至ったのは、彼の道会議員生活とは関連性がある。

 彼が小樽の街づくりに寄せた‶富者の一燈〟は明るかった。明治二十六年には色内町から浜町にかけて防火用として柳を植えたり、また彼は後に小樽競馬会会長になるほどの愛馬家であったが、日清戦争の際に愛馬を献納している。また明治三十一年には小樽港に移民休憩所を建立することに奔走したり、海員共済会小樽委員、日赤特別社員など侠気の人らしい肩書が多かった。

 彼はスキーの名門双葉女子高の前身である小樽実践女学校の校長になったこともある。同校は明治四十年九月に、本願寺の信徒の拠金によって設立されたもので、宇吉は校長として‶美人の多い樽娘〟の薫育につとめて、任期満了後バトンを板谷吉次郎に渡した。

 彼は明治三十二年には第一期の区会議員に当選した。三十五年の高野源之助対高橋直治の衆議院選挙では中盤で高橋を支援し、彼の勝利の大きい要因をつくったのである。

 初めて道議選挙に出馬したのは明治四十年八月の第三期のときである。相手は既に一期をつとめている政友系の小町谷純であった。四七二票対三四八票で小町谷を破ったがこの投票率は七七%で全国でも高率であった。これは港湾埋立方式をめぐって両派の角遂が激化し、住民の関心が昂揚していたからであろう。

 大正二年八月の五期では定員二名のところ篠田治七、七四四票、宇吉五〇一票で当選、第六期(五年八月)では宗谷支庁管内から立って当選した。この期の道会では彼は決算審査委員長として巾を利かせたのである。

 しかし大正九年八月の第七期では後志支庁管内から出馬した。一九六票の最低票で落選した。小樽は政友の寿原重太郎と憲政の板谷吉次郎が無競争で当選している。これは世界大戦後のパニックで小樽の有力者は政治どころではなかったからである。

 

 さて、彼宇吉の業蹟で輝かしい評価を下してよいのには、朝鮮独立運動の志士のパトロンであったということがある。

 日本では征韓論がかしましかったころ、当の朝鮮では大院君と閔妃の抗争に明け暮れていた。閔妃は政権を回復することに成功したがその一派は袁世凱の指導を受けて清国を頼みにし、親日派の独立党朴泳孝、金王揚はクーデターを計画した。

 明治十七年十二月そのクーデターは画餅に帰し、彼らは亡命したが日本での彼らの庇護者は頭山満、福沢諭吉、後藤象二郎、大井憲太郎ら広汎であった。宇吉と金との出会はなかなかドラマチックである。金は刺客の眼をかすめて札幌に住んだ時期があった。そして明治二十一年の夏たまたま来樽して越中屋に投宿、ある日切手を求めるために中谷の店を訪れたのである。当時、切手類も取扱っていたらしい。

 金は人夫の先頭に立ってキビキビした統率ぶりを見せている宇吉に注目した。

 「失礼だが、私は岩田周平という者です。」変名を名乗って話しかけた金と宇吉の間に友情が生れたのは、決して長い時間を必要としなかったのである。

 しかし金は明治二十七年三月、に上海で暗殺された。死体は清国の軍艦で朝鮮に運ばれ、バラバラにさらしものにされたのであった。この事件は書く新聞に大々的に報道されたから、宇吉は眼からウロコが剥落する驚きを味わった。一体朴はどうしているだろうか…そのことを考えると思いは朝鮮に飛んだ。二十八年三月朝鮮に渡る。このとき井上馨公使を通して朝鮮王御座所を拝観している。

 当時政府の実験は内相の朴を始め親日派の手に握られていた。ところが閔妃の指導によってあっけなく追われてしまったのである。そこで右翼浪人は閔妃を殺害し、大院君を擁立して親日政府をつくった。宇吉も一役を買ったがどんでん返しで親日派が敗れ、宇吉は国内退去命令を受けて小樽に舞い戻って来たのである。

 それから再度の亡命生活を送る事になった朴は、柳赫魯を伴って宇吉宅に数ヶ月滞在した。これは明治三十三年九月のことである。朴は宇吉の支持を得て書の頒布に当ったが、帰途に就くときは、小樽内の有力者によってさかんな送別会の宴が張られた。それから宇吉はひとかどの朝鮮通にとなったが、大君院の金応元も訪日すると、宇吉の許に現われたりした。

 明治四十一年。韓国皇帝李王が来朝した際、駕を北海道にむけたが同行したのは伊藤博文。この時宇吉は御用邸となった藤山要吉邸で伺候を許されている。余談ではあるがこの時伊藤は札幌のいく代で遊び、須磨子という芸者に手をつけた。その記念は惟一の二文字の揮毫である。小樽での行状は詳らかではない。

 四十三年の日韓合併後も、宇吉はしばしば李王邸に御機嫌うかがいの伺候を重ねたのである。

 このころ宇吉は道会議員、また四十三年には樺太汽船合資会社(後に中谷汽船合資会社と改称)を設立、四十四年には日本赤十字社特別社員に列せられ万事上向きの時期であったようだ。なお三十年には空知郡栗沢村に百町歩の土地を借りうけ、後にこれを開墾したが小作人一同から感謝状を贈られたというからその人徳を推して知るべきである。

 しかし彼の末期の人生は陽はささなかった。事業は裏目裏目と出て次第に衰亡し、世を去ったのは昭和九年十月三十日であった。今東京には娘のヤスが子供や孫と慎ましく暮らしている。

~小樽豪商列伝(28)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より