銀行と電燈 倉橋大介

2020年06月10日

 当節流行物は室内射的場と小株の銀行であると悪口をききますが……

 

 明治九年八月に国立銀行条令が改正されると、各地には都鄙を問わず有象無象の銀行が生れた。右は明治十年九月付郵便報知の記事である。たまりかねた政府は十二年末の京都百五十三銀行を最後に打切り、を宣したが、現在もなお残っている第一、第四、十六、十八、七七、一一四などは当時のネーミングの名残りである。なおここでいう国立はナショナルバンクの意であって、官営を意味しない。 

 眼を北海道に転じて銀行第一号は、明治七年二現在の札幌南一条西一丁目にお目見えした三井銀行の出張所。もっとも業務は官金専門であったから大衆とは関係がない。ところが小樽には大衆相手の二行が誕生した。一つは四四銀、いまひとつは六七銀である。

 山形県鶴岡の六七銀の支店を仕切っていたのは藤山要吉で、札幌、手宮の鉄道貫通や三菱汽船の定期航路開設をあてこんだが、所詮は資本金二万円の零細銀行であったから長続きがしない。明治十七年に至って藤山が自力経営の為替店として引き取ってしまった。

 一方四四銀支店の支配人は倉橋大介。藤山とともに小樽銀行業の草分けとなるが、彼が身をもって書いた小樽の歴史は電燈事業の方が圧巻である。修飾的な文脈を採れば彼大介こそ小樽に文明の光をともしたスイッチマンということになるであろう。

 初めに履歴を書く。彼は越前(福井県)武生(たけう)の人である。奈良朝時代に越前国府があったこの町は、昔から越前鎌の特産地として名高いが、幕末には名候松平春獄の領地。最後まで佐幕派と勤王派が対立したが、奥羽討伐の際には二十六才の大介は軍事係として叛軍最後の砦庄内を攻略した。

 維新後の明治五年には武生町進脩学校教師。九年山形県四等警部。それが四四銀の開設とともに小樽の人となった。

 この銀行の頭取は和歌山藩士で維新後大蔵大丞であった岩崎轍輔である。彼は明治十二年二士族の金禄公債を資金として、北海道の土地を十五年間で十万町歩を開墾するという壮大なビジョンをかかげて開進社をおこした。その意気と敗北については若林功が(北海開拓秘録)に委曲をつくしているが、資本金一七八二万のマンモス華族銀行第十五国立銀行の創業にもタッチしたことのある彼は、四四銀を設立して小樽、札幌、根室に支店を置いた。小樽支店の所在地は山の上町である。

 営業は漁業資金融資を主眼とし、普通、金利が五、六分であったのに対して、二分二厘…山林という低利であった〈小樽港史〉はそのころの評判を〈当時高利貸営業者は苦情を鳴らせしも多少金融機関となりたり…〉と書いている。しかし‶武士の商法〟も所詮は眼高手低であったらしく、明治十五年九月に第三銀に併合されてしまった。第三は現在の富士銀行の前身である。大介が後に添田弼の北海道銀行の監査役となったり、高野源之助や金子元三郎達と共に拓銀の創立委員に任ぜられたのもこの短い銀行生活の拡大的投影であろう。

 大介は貨幣から船に乗り換えた。十六年十月、共同運輸小樽支店副支配人という肩書である。共同運輸は打倒三菱を呼号する藩閥政府が、屯田兵事務局長の時に下野した堀基即ち初代北炭社長や函館の豪商杉浦嘉七、常野正義。そして後に大介の小樽電燈舎を継承した園田実徳達の創立した北海道運輸と、東京風帆船、越中風帆船を合併させ手厚い庇護のもとにつくった海運会社である。

 三菱との競走は日々苛烈さを加え、小樽・東京間の貨物運賃名地は三分の一に下り、荷主には景品まで送られたという。そのころ小樽には「四本マストの三菱の土佐丸が入港すると、必ずシケが興るだってよ」という風評がばらまかれた。これは共同側がでっちあげたデマゴギイである。

 この儘運ぱんか共倒れは必定。慌てた政府は火付け役から仲裁役に廻り合併をいそいだ。ここに資本金千五百万円の日本郵船会社が発足、大介はその儘小樽支店長となった。

 石巻、酒田などの支店に転勤したりして再度小樽にカムバック。何しろ明治二十二年七月には札樽の実業者の親睦団体農商会の会長に推されたのであるから天下のN・Y・Kの親方日の丸がプラスしたといってよい。

 

 さて大介は小樽での電灯事業の第一人者となった人物でもある。

 札幌では明治二十二年二月に札幌電灯株式会社が設立されていた。設立当時の株主は三十二名で岡田昌作社長、そして役員は対馬嘉三郎と小樽の金子元三郎であった。蒸気機関を用いた火力発電であったので、電灯料が高くて一般化しなかった。

 しかし大介は金子を通じて熱心に事業内容を調査し、文明の灯の将来性を確信したのである。小樽に新潟から始めてランプを移入したのは明治十一年。いかにも珍奇で黒山の人だかりを作ったほどであったが、十数年で早くも電灯がともる運命となったのは、小樽の発展とそして大介のような先進的な見眼の人がいたからであろう。大介は職を辞して小樽電灯舎を設立、事業に没頭した。明治二十七年の事である。

 翌年一月十日。日清戦争の勝報に湧く小樽の久右衛門(厚三父)を社長とする資本金三十万円の北海道電気が発足した。これが水力電気の先鞭である。

 この後の小樽の電業史を追ってゆくと、大正七年四月(当時小樽電灯株式会社)に帝国電灯と合併、帝電は大正十五年四月に東京電灯と合併して、北海道水力電気株式会社となった。これが昭和四年王子製紙に系列に入り、小樽から板谷宮吉、寺田省帰が取締役に就いた。特に板谷は王子に次ぐ大株主で一二五五〇株を所有、また北の誉の野口喜一郎も大株主であった。小樽電灯合資の時代からの生え抜きの電業人河原直孝(第五代市長)は、同社の専務となった。

 実業家大介がふまえた場は電業に限られた訳ではない。明治三十年七月小樽貨物保険株式会社を創立、そして社長。これは三井、二十、小樽、屯田等各銀行の出資によって設立されたもので重役陣は遠藤又兵衛、藤山要吉、寺田省帰、板谷宮吉等である。

 それから小樽取引所。明治二十年代には小樽の商務は全道海産物の十分の七を独占したが、市価の標準を保つために発足したもの。初代理事長は高橋直治で大介が金子の後を継いで理事長となったのは、取引所では国債証券も取扱ったからであろう。なお彼は拓銀の設立委員にも挙げられ、また商業会議所の会頭に推された。

 三十年には小樽木挽所の名で鉄道枕木の輸出を行い、翌三十一年には手稲に北海道造林合資会社を設立してその社長となった。。〈かくの如き大植林は、本道民間事業中比類なきもの〉(新撰北海道史)の会社である。

 

 

大介の亡き後、子の半造は予備海軍大佐として東京に在任した。しかし銀行、電灯その他の事業で、次第に力強い遺産をのこした大介の足跡を消す事はできないのである。

~小樽豪商列伝(30)

 脇 哲

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より