投機の栄光と悲惨 -その群像たち-

2020年06月12日

 

 日本は第一次世界大戦では、戦争の悲惨さを皮膚だけで感じ取って多くの恩恵を入手することができた。これを都市本位にみても小樽はその‶天佑〟のために、大いなる繁栄の契機を掴む事ができたのである。

 貿易港たる都市性格は自らに火の粉が降りかかってこない限り、戦争によって活路を得る事ができるのであるから、どこか死の商人のイメージと縁がある感じがしないでもない。

 北海道は豆類、特に豌豆、菜豆と馬鈴薯に関する限り日本のウクライナである。これらの豆の歴史は明治初頭に札幌農学校に於て米国産の原種を輸入栽培したことに始まる。それがロンドンに向けて輸出されたのは明治四十一年のことであった。

 大正三年七月。そのころ小樽は運河式による埋立工事が着手され、また浄水場の完成が目睫に迫っていた。サライエヴオの銃弾一発が、この港街の如何なるドラマの開幕ベルとなったがそれを予知した者はいたであろうか。第一次世界大戦の勃発は全国的に輸出の停滞、生産物価の一時的低落などの恐慌をもたらしたが、やがて農産物の輸出が異常な増進を示し好景気を煽った。欧州の豆類主産地ルーマニア、ハンガリー、オランダなどが戦火にさらされることによって、北海道の豆は一躍視聴を集めて英国方面に輸出されることになる。それにこれに続く澱粉特殊農産物の除虫菊、薄荷、戦時必需品の亜麻等道産農産物は一斉に海外を目指したのである。

 例を菜豆にとると、明治四十五年の生産額は二百〇万円でこれを基準の一〇〇とすると大正六年には実に一〇六二の指数に達した。戦争前の小樽雑穀商同業組合の加入者が八十人であったところ、六年には一二七人に増した。大正八年の手形交換額は札幌の七・七倍、銀行預金額は二・七六倍。また八年四月に峰延の小林篤一と小樽の多久和力之進らによって、現在のホクレンの前身北海道信用購販組合連合会が小樽に結成されたのも故なしとせず、輸出の枢要地小樽の威力の賜物であった。

 小樽の好況は①労働力の供給に恵まれており②外国為替銀行の充実と有力商人が多く③市場の発展的機関が整備して、貸付売抜け自在で輸出先への売込みが容易であることに基いているもので、堺町には通称貿易小路の名の通りが生まれたのも、このころ好況を示すものがあった。

 黄金の雨が降りしきったころの小樽については、種々巷説が流布されているが、朝に万金を掴み夕には乞食となる雑穀の投機(スペキュレーション)の魔力にとり憑かれた男達は少なくない。

 いまその群像の興亡の道行をたずねてゆくと、明治末期には早くも宮村広吉が陸軍糧秣廠を相手に燕麦の買占を計って失敗している。

 赤十山崎重次郎も燕麦で蹉跌した組である。彼は東京府下の出身で早くから東京神田の雑穀店に奉公した。明治二十四年二来樽して小豆将軍高橋直治の店でシゴかれて後に独立。当時の小豆の取引が、品質の不統一やマス目の不正によって取引先から非難されていたのを改善して信用を博し、山崎合名会社を設立することができたのである。

 明治三十六年には日露開戦を見越して、馬糧の燕麦を買い占めたあたり非凡の慧眼であった。ところが戦争の終結によって大儲けも元のさやに収まり、三十九年には遂に閉鎖の止むなきに至ったのである。

 しかし彼は挫けない。翌年青豌豆が香港で需要が多いのに着目し、小樽農産商組合長時代の顔をフルに使って道産青豌豆を売買した。ところが日露戦の戦後不況。かてて加えて在京の息子の事業の失敗を救済するために莫大な金を投入して挫折してしまった。大正五年で彼の夢は消え去ったのである。

 中谷彦太郎は紀州和歌山藩の士族で毛なみもよい。慶応義塾の分校若山徳修学校を卒えてから、大阪松本重次郎商店の小樽支店長として来樽した。後に独立して北海道雑穀株式会社を設立して、外国に菱形に北印のマークの小豆を売りさばいた。明治四十三年二小樽雑穀同業組合が設立されてその組合長。大正二年には業者の自治検査所を設けて道産品の信用回復に尽力したあたり、その功績は認めてよい。

 大正初期は雑穀の思惑買が盛んに行なわれた。中谷は青豌豆の買占を計ったがこれが破綻の因となった。一万五千石になんとする大量の品物も、内地での先行が香しからず、さらに小樽での米との混食のPRも功を奏せず、事業を放棄したのは大正三年であった。

 曲久山本久光は明治二十一年福井県から渡って来た赤手空腕の男である。五十集(いさば)からスタートして耐乏の中から資金を蓄え、呉服販売の行商人となった。こうして得た千円で海陸物産店を開いたが、彼もまた高橋の演出で小豆などの買付をし大正三年ころには業界の雄となったのである。しかしこの小判鮫も親分の直治鮫の汲落とともに運命をともにしてしまった。

 大阪出身の丸桁井上宗太郎。彼は世界大戦の勃発とともに大量の馬鈴薯を買占めた。英国などから澱粉の引合が殺到したとき彼は三井、湯浅、鈴木などの大商社から大量注文を一手に引き受け、澱粉王呼ばわりされるに至った。しかし‶喬木風に強し〟のたとえで、他人の思惑を顧慮せず取引には仮借しなかったあたり、流石は上方仕込みであった。その後青豌豆の買占にかかり、三千トンの契約不履行問題で対英との国際的係争をおこしたりして結局三十万円の出血であった。

 前記の群像は、一応投機の魔術の手玉にとられた男としておく。しかし時世の流れを敏感にとらえすみやかに転身して、別な次元で名をなした男たちも尠なくはない。

 例えば現在道南バス社長として盛名の高い徳中祐満…。彼は十六歳の時十六銭を懐中にして小樽に上陸した。大道賭博に欺かれて無一文となった顛末はいささか通説立志伝めいているが、心機一転して大野順末雑穀店に住込んだ。それから頭角を現わし日露戦争後樺太の大泊支店の采配を任せられたが、やり過ぎて追われ室蘭にとんだ。これは禍転じて福となすの例である。なお大野は後に板谷宮吉と樺太銀行を設立した人。また大泊商工会議所会頭となった。

 池田製菓社長池田泰夫は徳中の石川県大聖寺出身に対して新潟県柏崎。後述の宮崎吉次郎は富山県の黒部の産で、いずれも小樽と脈絡断ち難い北陸地方であることに注目したい。

 池田が小樽に到着して、堺町の雑穀屋内田商店に入店したのは大正三年。これも十六歳。船荷証券を船会社に取りに行ったり、相場を電報で得意先に知らせたりするのがその仕事であったが、その不安定な商いに見切りをつけ、バナナ問屋を始めた。これが開運の緒である。

 小樽に本拠を持つ北海道缶詰株式会社社長の宮崎は、蔭割安太郎経営の海陸物産問屋南郷商店に入った。故山を見すてた父の来樽と主人の死によって、米の取引の宮崎商店を開いたが、視野の広い彼は大正七年七月から八年かけて巨利を得た。大恐慌による損失も十二年ころまでには解消したが、昭和十年の缶詰製造が彼の今日をもたらしたのである。三人はいずれも夫々の業界で傑出した存在を示しているが、一時的な繁栄の陰にひそむ虚妄を鋭く嗅ぎとった商略が、彼等をして悲劇の経営者に至らしめなかったゆえんであろう。

 相場の諺に‶山もあれば谷もある〟というのがある。すべての繁栄を無残に引き裂く谷間への転落は、大正九年三月十日に始まった。株式相場の暴落が一斉に始まりすべての生産が激減した。四月から七月に至る間取り付けを受けた銀行は一六九行。商社の破産も中クラス以上のものだけで二八五社に及んだのである。

 北海道でも豌豆は九年の十一月には五円七十銭の安値を示し七年の作付反別六万八千町歩から二万九千町歩に激減した。九年から十年にかけて小樽豆撰工場の閉鎖によって失業者が氾濫しよんどころなく娼婦に転落するものさえ現れた。

 しかし戦後恐慌・大震災をへての不況コースで日本経済を根底から揺さぶった問題に曲辰鈴木商店の倒産がある。これは例えば〈産業界を揺るがした経営事件〉(別冊中央公論・昭和四〇年秋季号)のなかの〈鈴木商店の破産と昭和金融恐慌〉に収められてているが、あらゆる経済史の一章を飾っている。且、その大番頭金子直吉は〈近代日本を創った百人〉(毎日新聞刊)の一人たる人物でもあった。小樽支店は、北海道で消費する砂糖の七割、樺太・カムチャッカ地域への輸出額の九割。そして豆類や北見薄荷の大宗を取扱っていた。明治四十年の支店開設とともに赴任した支店長志水寅次郎は、明治十年十二月西南戦争の余燼くすぶる熊本県八代に生まれ。三十八年に鈴木に入ったが札幌製粉株式会社専務も兼任した。鈴木の倒産後大成商事と結んで独立の道を拓いた。

 金子は大正六年秋二十代の高畑ロンドン支店長に左記の如く親書を発している。

 〈…今当店のなしおる計画はすべて満点の成績にて進みつつあり、お互いに商人としてこの大乱の真中に生まれ、しかも世界的産業に関係せる仕事に従事し得るは至上の光栄とせざるを得ず。すなわちこの戦乱の変遷を利用し大もうけをなし三井三菱を圧倒するか、しからざるも彼らと並んで天下を三分するか〉

 衝天の気概に気圧さないでもないが、さらに〈今後は日本米と豆の輸出を盛大にやらんと欲す。昨年の例によるときは米は満足すべき商売をなしたるも、豆ははなはだ不充分なりし、大いに協力せられんことを欲む〉の一章に、私たちは入るるはロンドン、出るは小樽の両門を総攬する。不世出の商傑の紙背の眼光に驚かざるを得ないのである。

~小樽豪商列伝(31)

 脇 哲(日本放送作家協会/札幌)

 月刊おたる

 昭和40年新年号~42年7月号連載より

 

~小樽豪商列伝 おしまい~