第4回 商魂栄える

2020年08月18日

観光客でにぎわうオルゴール堂

♦内地米の評価

 「昨廿九年野実績で40万石にもなった当港輸入米は、過半数が越中米でこれに越後が続き、庄内米の順。さらに秋田・加賀・能登・越前・東海道・中国・九州などが続く。これまでの経験によると、品質は越後が裁量で庄内が次。中国などにも優良品があるが、数量が少ないので品質を評するに至らない。だから、秋田米は感想を十分にし、等級を付けて桝量を一定にする必要がある。俗に厄といわれる腐敗を生じる五月下旬のころの変質が早く、しかも天候が戻れば他の米は品質が回復するのに、秋田米だけは変色したうえ搗減り(つさべり)の度合いが増すのでどうしても買入を躊躇する傾向がある」

 明治三十一年三月刊の会議所月報第四号に載った、秋田県庁からの照会に対する返事である。前年の四月二十五日、山の上町魁陽亭で開所式が開かれている。

♦最大の工業が精米

 米がとれないはずの北海道でも‶日本人だから〟米の御飯が不可欠だった。第二回で指摘したように、この時期本州からの主要移入品は米だった。米は玄米で輸送し、消費地で精米する。二宮金次郎を持出すまでもなく、石臼でついて白米にする作業は大変だった。内国植民地化途中の北海道では精米が当面する最大の工業だった大正二年(一九一三)の小樽工業生産額778万円のうち、精米が466万円で六割を占めていた、という統計数字がある。

 全道移入米の一手引受を目指した男が、空知管内沼田町にその名を残す沼田喜三郎だった。喜三郎が社長をした精米会社「共成」は、運河に近い堺町のロータリーに面した「小樽オルゴール堂」に変身し、現代に生き長らえている。

 天保五年(一八三八)越中国東砺波郡の大工兼業の百姓の子として生まれ、十二歳から働きに出て、ようやく家に帰れて百姓になったのが二十六歳。妻子を置き、単身でやってきた時は四十九歳にもなっていた。人生五十年の時代だから、既に黄昏時に至っていた。

♦華麗な変身

 小樽に来た喜三郎は、鳴かず飛ばずの富山での生活からは考えられないような活躍ぶりを見せた。時と場所を得た男の、華麗な変身ぶりが、当時の小樽の状況をよく物語っている。

 小樽と高島の郡境だったオコバチ妙見川畔にあった水車は、冬は凍って夏は水枯れと能率が悪かった。大工気があった喜三郎がやったのは、川の水を水車の上からかけるだけ。それまでは流れに水車を浮かべていたのに比べ、力学的に見ても合理的だ。今様にいえば、発想の逆転。氏素性をとわず、能力と努力にチャンスさえあれば、当時の小樽はだれにでも成功の可能性がいっぱいあったよき時代だったのだろう。

 喜三郎の後を追って、同郷の京坂与三太郎がやって来る。二人で力を合わせ、奥沢村の勝納川沿いに八基の臼を並べた水車小屋からスタートする。五年後の明治二十四年に資本金6万円の合資会社・共生を設立。朝里川畔に造った精米所は、五斗張りの杵を動かす直径三間の水車が当時日本最大といわれた。蒸気を動力にした稲穂精米所から、札幌の中心街にも進出し、資本金は15万、30万、75万、100万と次々に増資を重ね、東京以北随一の精米メーカーに成長した。

 明治三十年には4万1千石を精米し51万6千円の売上を得ている。同四十五年新築の木骨レンガ造り銅板ふきルネサンス様式の本社が、現在のオルゴール堂だ。

明治37年9月刊の月報25号に載った共成株式会社の広告

♦地域開発に乗り出す

 「明治二十六年当地方開墾の急務なるを悟り、断然同社長を辞し本村委託開墾株式会社を経営し、粗衣粗食に甘んじ大自然と闘いながら、自ら鍬を振って移民を鼓舞激励し開墾事業に没頭した」-昭和十三年に沼田村が刊行した『村民読本』の一節である。

 有利な栽培作物として亜麻を勧め二十九年に雨龍製線所を設立したのを始め、沼田市街と美深に製材工場、小樽に製油会社、中頓別に水力製材と、各地の実業界に貢献し、さらに沼田駅・市街道路・神社・学校などの用地寄付など、公益事業への貢献も目覚ましいと褒めたたえる。

♦委託開墾株式会社

 精米から開墾へと、方向転換したきっかけは何だったろう。小樽に来る前に函館で開拓会社の開進社に入社して、函館大火に遭い木材を仕入れて巨利を得る様子を見ていたと、昭和二十九年刊の沼田町史にある。維新の元勲で太政大臣だった三条実美が、雨龍原野5万町歩の貸与をうけて華族組合農場を始める。だが、実美の死亡で明治二十六年に解散した時、これはチャンスだと考えた。

 実美死亡後に華族組合に参加した東本願寺の現知上人、大谷光瑩伯爵は明治二年、十九歳で来道した経験を持つ浄土真宗の法王。檀家総代を通して大谷伯爵を説得し、資本金10万円の雨龍本願寺農場・委託開墾株式会社を設立したのがその年の八月だった。

 翌二十七年に富山・石川両県から180戸、二十八年200戸の農家を入れる。会社事務所が農産物を一手に買って小樽市場で売り、住民の生活必需品も小樽港を経由した。社長が先頭に立った開墾は計画通りに進み、定款に沿って十一年目に解散。開墾成功で付与された土地は幌新太刀別川を境に西側を大谷家に、東側の社有地は5町歩300~500円で分譲した。

 喜三郎が受け取った400町歩を今井デパート創立者今井雄七に売った大正三年に、北龍村から分かれた上北龍村の戸長役場が設置され、四年後に幌加内村を分村している。上北龍では北龍村とあやまりを生ずるからと、大正十一年四月一日に道庁が沼田村と命名した。

 大谷家に提供した地区は北龍村に残り、社有地が上北龍村になった。喜三郎所有地が今の沼田市街になり、北龍市街の本願寺にあった事務所は沼田市街に移り、明治三十九年建設が始まった留萌線鉄道の駅が沼田市街にでき、沼田小学校・沼田巡査駐在所などが続けば、次は沼田村誕生になるのは当然だろう。昭和二十五年には「共成」の新字名も誕生している。

 沼田村誕生の翌年暮れ、九十二歳で大往生した。≪曇り後晴れの人生天気図だった≫と、脇哲「小樽豪商列伝」にある。

 

~会議所百年・小樽商人の軌跡

 小樽商工会議所百年史執筆者

 本多 貢