第3回 会議所登場

2020年08月11日

♦相場会所が始まり

 「実子売買の物価を収集し、その価格を審査公定、以て商業を通暢保護する所なり。故にその意を体し、勝ち商況等努めて正実を報道し交易を謀るを旨とすべし」

 明治十三(一八八〇)年一月十日付の開拓使布達第三号による『小樽相場会所条令』の第一条緒言の第一節。開拓使本庁租税課に所属する小樽船改所の管理下に置かれ、一週間の平均相場価格を公示することで物価安定を図ろうとした。

 頭取は戸長の一人が兼務、副頭取などは地元商人から選んだ。事務は必ず改所官員の指揮・監督を受け、簿冊類は検閲する。さらに頭取以下の壇行を許さず、といった規定まで盛られており、自発的な純民間組織とはほど遠い、官主導の機関だった。どの程度機能し、効果を発揮したか定かではない。会議所の機能の一部を受け持つ、前身みたいな感じの組織だったのだろう。五年後に廃止され、仕事は改所や船問屋に引き継がれた。

♦創業報告

 明治三十(一八九七)年二月十五日発行の小樽商業会議所月報壹號の冒頭に、こんな創業報告が載っている。

 山田吉兵衛、田口梅太郎、西谷庄八、丸井正助ら一四人が「明治二十八年八月十六日舊(きゅう)共商会に参集し会議所の名称、位置、地域、創立費予算、会員の定数等を協議決定せり。」

 そして翌二十九年四月に月十円で借りた旧共商会の建物で開所式を催しており、会議所設立に際して旧共商会なるものがしばしば登場する。

♦会議所の前触れ

 会議所がある日突然誕生した訳ではない。それなりの前触れはあった。はじめは冒頭の相場会所であり、開拓使消滅の翌明治十六(一八八三)年四月の興商会、二十一年の協同談話会、次いで翌二十二年七月の農工商会、さらに二十三年の小樽共商会に至る。

 毎週大阪と東京に電報で主な商品の値段を問い合わせ、広く知らせようとしたのが興商会だった。本や新聞を取り寄せて公開・閲覧させたり、取引上の紛争解決、商業上の質問などにも答えようとした。共同談話会も商業・教育・衛生などの問題について話し合う場つくりであり、農工商会では札幌まで出かけての実情視察をしようとしていた。会頭は倉橋大介、副会頭が船樹忠郎だったが、二年たらずで解散している。その理由はどんなものだったんだろう。

 言うなれば、小樽を舞台に商売情報の共有化を図る商人対象のサロン、勉強会のようなものを自発的に組織しようとしていた。今流にいえば「異業種同士の朝飯会で情報交換を」みたいな意図だったんだろうか。

 共商会は米穀・海産・雑貨荒物商など七十人ほどの商人が参加し、小樽商業新聞の発行や米穀・鰊肥料の取引所設置など活発に活動した。『天塩・北見・石狩・後志の産物はすべて小樽商人が取扱っており、全道産額の七割に達している。さらに本州からの米移入が増えているのに公定市場がないため、奸商がのさばっている』と広く各種取引所の設置を呼び掛けた。

 遠藤大三郎取締に三木七郎右衛門・塩田安蔵・高橋直治の三委員というメンバーが顔をそろえていた。

♦北海道特例措置 

 こうした土壌があって、いよいよ会議所の登場になる。商業会議所条令は明治二十三年にすでに公布されていた。しかし、会員資格を本州並にすると適格者が少なくなるので、便法として所得税の代わりに地方税が三円以上、という北海道の特例措置を盛った農商務省令が二十八年に出る。

 当時の小樽商人での有資格者は二百人ばかり。この年八月に集まった十四人の中から設立委員五人を選び、九月十三日付で小樽商業会議所設立申請書を農商務大臣子爵榎本武揚あてに提出、板谷宮吉ほか十七人が発起人に名を連ねている。

 月報第一号には、続いて会員選挙規則、創立費予算、四日市、博多など本州各地の会議所をはじめ、郡役所、農商務省といった官公庁からの問い合わせや照会に対しての報告類が並ぶ。

 なかでも興味あるのは、米・塩・魚肥用の俵製造に付いての農商務省からの調査以来だ。産地ごとに違う古い慣習・やり方の長所と短所の比較に始まり、荷造方法を改良する必要性、その内容、さらに俵の升量を全国一定にすることによるプラス・マイナス。揚句は俵の改良を実施した結果、値上がりしたら売れ行きがどうなるかといった見込み等々。ちょっとやそっとで答えられるような内容でない。こうした官庁からの照会に対してどのような返事をしたか、についての報告は無い。しかし、流通機構の整備、殖産興業策の推進を巡って当時、官民が協力して実行していた本道での実態の一部を窺わせる。

♦創立議員の顔触れ

 農商務省に報告し、新聞にも広告されたという創立議員二十五人の商売を見ると…。

①漁業     藤山要吉・山田吉兵衛

        渡辺兵四郎

②工事請負   鈴木市次郎

 醤油醸造   早川両三

③運輸=回漕  塩田安蔵

    回船宿 渡辺三蔵

卸=海産    町野清太郎・新谷喜作

        広谷順吉・遠藤又兵衛

  水陸産   西川貞二郎

        白鳥永作

 =米穀荒物  板谷宮吉・林清一

        高橋直治

 =雑貨荒物  井尻静蔵

        三木七郎右衛門

 =呉服太物  石橋彦三郎

        榎幾太郎

 =依托    田口梅太郎   

        田中武佐衛門

小売=小間物  堀井音次郎

        奥山清左衛門

  薬種    直江久兵衛 などとなっている。

 海産物商のほかに水陸産物商がいて、卸しのなかの委托商はどんな商いをしたんだろう。

 一次産業が三人、二次産業は二人、残り二十人は三次と、典型的な商人の町だった当時の状況を示している。百年後の現在の議員構成と比べれば、一世紀の歩みがさらに明確になるはずだ。

 仮会頭渡辺兵四郎、副は田口梅太郎で第一回総会が十五人の全員の出席で開かれ、山田吉兵衛会頭、渡辺兵四郎副会頭を選出。続いて商業・田口梅太郎、工業・鈴木市次郎、理財・高橋直治、運輸・遠藤又兵衛の四部会長が選ばれ、就任届が農商務省に出ている。

♦会費納入は上々

 創立費の決算は九四六六八円。二十九年度の経費徴収は営業者二一二人で一四八八円二〇銭一厘(平均七円強)、会社・銀行は八で一八九円二八銭一厘(平均二四円弱)の計一六七七円四八銭二厘だった。暮も押し迫った十二月十七日に告知書を出したのに、年明け早々の翌一月四日までに一六四五円五五銭九厘もの納入があり、未納は極めて僅か。納期内に廃業したものもあるから「実際の未納は一、二に過ぎざる可し」 と、嬉しそうに報告している。

 さて、会議所は何をしようとしていたのか。条令第四条は①商業の発達・衰退防止策を議定する②商業に関する法律・命令・諸条規や商業上の利害について行政官庁に具申する③商業実況や統計の報告④行政庁の諮問に答える⑤官設の営業所や仲立人組合など商業関係の建物管理⑥仲立人の資格・数・手数料の審査⑦商業上の紛争仲裁……と具体的に決めていた。

 

~会議所の百年・小樽商人の軌跡

小樽商工会議所百年史執筆者 

本多 貢