小樽文化史

2020年04月29日

 

第三章 明治時代

第三節 小樽の自治

 小樽に自治が誕生したのは明治三十二年である。

 即ちこの年の十月、道庁告示を以て札幌・凾館・小樽に区制が施行されることになった。

 小樽の自治を考えるとき、古く明治三年六月、船樹忠三郎が大年寄(のち戸長)に任命され、そのご町民を代表する総代理人がえらばれて、町会所から戸長役場がつくられたのに始まるが、正式に公の自治が認められて一級から三級にいたる納税資格、によって分けられた二十七名の議員(各クラス九名宛)がえらばれたのは、この時である。

 ところで当時すでに開港場(七月)に指定され、人口六一八九三人を擁する国際貿易港となって、凾館に次ぐ本道第二の大都であった小樽港にして、有権者の数は何と二九五名に過ぎない状態であった。

 これには三年以上定住しないと、選挙権を認めない条件もあったが、殆んどの市民が区税の負担に耐えられなかった訳で、貧富の差の甚だしかったことが分る。

 次いで翌三十三年の一月、初代の小樽区長として金子元三郎〔明治二年新潟県寺泊出身・福山の富豪金子家の養嗣子となって来樽・のち代議士、貴族院議員〕が就任した。

 区役所の庁舎は、始め量徳町六〇番地に在ったが、三十四年一月新庁舎が落成して、公園内の現在地に移った。

 第一回の選挙に当選した区会議会の使命は次の通りで、その過半数が商業会議所議員(明治二十九年創立-会頭山田吉兵衛)を兼任しており、文字通り当時の小樽政財界を代表する人達であった。

〇印兼任

第一級

 寺田省帰  ・ 村住三右衛門

〇林 清一  ・〇広谷順吉

〇高橋直治  ・〇三木七郎右衛門

〇藤山要吉  ・ 福長作太郎

 金子元三郎

第二級

〇堀江音次郎  ・〇鈴木市次郎

 中谷宇吉   ・松田直次郎

 船樹忠郎   ・〇山田吉兵衛

〇田中武佐衛門 ・ 亀尾紋造

 寿原重太郎

第三級

 高野源之助  ・〇板谷宮吉

〇渡辺兵四郎  ・〇早川両三

 本間賢次郎  ・ 麻里英三

 佐藤寿吉   ・ 倉橋嘉蔵

 遠藤次郎右衛門

 区制がしかれて、まず当面したのが埋立問題である。

 由来、小樽の埋立は、埠頭の建設、・運河の構築・市街地の造成など、港湾の整備に欠かせない多くの条件を抱えていて、明治後半期の行政は、殆んどこれに終始したと云ってよい。

 小樽港の埋立の歴史を顧みるとき文久元年(一八六一)に遡り、場所請負人の岡田が、港町の開眼に岩石が屹立して通行不能であったのを、幕府に出願してオタルナイ来泊の弁財船一艘に対し、伝馬船一ぱい宛の土塊を運ばせて投入し埋立を図った。

 これは開拓使の時代になってからも続けられ、やがて港町から手宮の埠頭にかけて、浜町や砂崎庁が造成されたことは、既に述べた通りであるが、明治二十九年になって、町営で-立岩から厩にいたる海岸一帯を埋め立てて、海岸と埋立地の間に、運河を造ろうとの計画が出た。

 そこへこれとは別に、さきに幌内・手宮間の鉄道払い下げを受けて成立した、北海道炭礦鉄道会社(のちの北海道炭礦汽船)が、自己の荷捌き貯炭場を得る目的で、手宮停車場地先の海岸埋立を出願したことから許可申請をめぐって両者の対立となり、これはその後明治三十七年、園田長官が仲に入って和解させるまで続いた。

 このように埋立問題がこじれたのは、その陰に政党が介在したからに他ならない。

 小樽市史によれば…‥。

 

第四章 大正時代

第三節 文化のシムボル

 小樽の俳壇に就いて、その黎明時の様相を最も詳細に伝えているものは、「小樽の人と名勝」(昭和六年刊・阪牛祐直編)第二十八章‶小樽俳壇の今昔〟である。

 これには菅沢邦麿(飯茶・嵐峡-大正五年一俳寺主宰)、奈良勇吉(逢也-大正四年北斗俳壇・大正五年蝸牛会主宰)の援助を得たと書いているが、著者阪牛祐直自身、瓢斉又は柳也坊と号して俳壇の煮宿であった。

 同誌によれば小樽の俳諧は明治七、八年の頃盛岡の俳人於會此一(俗名啓之丞)なる者が小樽に来て、当時、潮見台病院の院長であった丹羽晩節(旧姓菊池)と共に「親睦社」を創立したのに始まるという。

 その後の年月不詳、西沢素更・其道の父子が「梅黄社」や「親友会」を主宰するに至って、小樽俳諧の勃興をきたし、明治二十二年住吉神社の境内に芭蕉の句碑を建立するにいたったと伝える。

 当時、小樽人士の有力者で俳名の著われた者少なからず、船樹忠三郎(古漁)・堀松定治(秋樽)・田中武佐衛門(逸民)・入山伝左衛門(寿松)藤山要吉(以寧)・乙村兵作(幹史)布施市太郎(其友)牧口徳太郎(子胖)河上正貫(不捨)・先代井尻静蔵(淇水)・中山清庵(老水)・佐藤寿吉(梅史)ら。

 わけても藤山以寧方に寄宿していた姓氏・生国とも不詳-紫城なる俳人は、於會此一と共に草創期の小樽俳壇史に、忘れることのできぬ名であると思う。

 また当時の実業家や沙門のなかには、文化の先達としての傑物が多く、渡辺兵四郎(一布・山海狂人)・森正則(不斗史)・山本厚三(紅草・北海漁人)・寿原猪之吉(一瓢)塩野喜作(其水)石田甚兵衛(方古)・浜田和三郎(越山)・沢田徳右衛門(漱水)小笠原辰治(菱崖)ら、孰れも経済界や学識の経験者として、それぞれの雅号を有した人達である。

……。

十一 (遺作)

鶴も来て 齢ひくらへよ 松の花  渡辺兵四郎

 

長紀聖蹤碑(小樽公園)

 明治天皇が、始めて北海道に第一歩をしるされた手宮上陸(明治十四年八月三十日)を記念して、小樽の長老渡辺兵四郎が毛無山から巨厳を運んで建立(昭和六年)した畢生の大記念碑である。

 碑は小樽港を一眸に望む公園内見晴台の東端に盤石の如く聳える。

 

第四章 記録

将棋

 …。

 また渡辺俊朗(奥沢一ノ三・明治二十四年生・将棋初段囲碁三段)氏の語るところに依れば……私の父(渡辺兵四郎)は碁はやらなかったが、将棋が好きで頗る強かった。私は父の手ほどきで将棋を覚えたが、早稲田を卒業して帰ってきた頃には、手宮の拓銀支店長の某(名前を失念した)と毎晩のように将棋を指し、そのご昭和十七年一緒に関根金次郎名人直筆の初段の免状を貰った。

 好敵手は平野製菓の社長平野清嗣二段(市会議員)であったが故人となり、いま私の将棋を孫の大助(三段・潮陵高校-学習院大学)が継いでくれている。

 …。

市政施行五十周年記念 小樽文化史

昭和四十九年十一月三日発行

発行 小樽市花園二ノ十二ノ一

   小樽市長 稲垣 祐

小樽文化史編さん委員

渡辺得郎

越崎宗一

三ツ谷弘郷

樋口忠次郎

渡辺悌之助